歩いて帰る

今年は春が来るのがちょっと遅い感じ。でも昨日あたりから日中があったかい。
日差しがここちよい。厚着から解放されるなと実感する。
冬の防寒着として、江戸時代の武士階級は着物の上に羽織を着てた。
あんまり、ぬくくない。
武士以外は袢纏(はんてん)を男女共によく着た。
生地が二重構造でその中に綿が入ってる。
武士階級もそんな綿入れを着りゃいいのに、体裁が悪いから着ない。
「武士ともあろうものが…」の教条と心意気が痩せガマンを強いてた。
その点で庶民階級は気持ちがラクだ。
ほとんど、それってフトンじゃないの? と思えるような分厚い袢纏を着てネコみたいに丸くなってた。
袢纏や浴衣は買うものではない。
家庭で作る。
そも、着物は京都の公家たちが新品を着る。
それが古着として大阪界隈に出てから江戸に運ばれた。だから江戸の武士階級の女性たちの多くはその古着を着てた。

それがさらに着古されてから庶民の手に払い下げられる。
(ホントは綿製品としての着物も流通してるけどココでは省く)
絹地は思いのほか丈夫なもので、何十年も使える。仕立て直したり、染め直したりすればリサイクルというよりは、限りなく新品なニュアンスをもった布地になる。
むろん、ホントの新品を扱う反物(たんもの)屋はあるし呉服屋もある。でも、多くはそんな古着だった。
でも、丈夫とはいえ、ながく使われたらやはり傷む。繊維そのものが柔らかくなってしまう。
それらが浴衣になったり袢纏になる。浴衣はさらに流用されて子供のオシメになる。さらにボロになると雑巾になる。
袢纏は、カッコ良さよりも実用重視だ。
あり合わせの絹地で縫われることが多く、ツギハギだらけなのがざらだった。
でも、江戸の人は発想が粋だ。
そんなツギハギを指し、
「よっ、粋な東海道だね〜っ」
と、褒めたりした。
"東海道53次"とかけあわせたのだ。
誰も彼もがそんな"53ツギ"を着ているワケだから、着物による貧富の差を意識するコトがない。着物で引け目を感じるコトがない。

これは明治時代から大正に、大正から昭和の初期まで連綿と続いてた。
この時代の庶民的光景を移した写真をみると、皆な、煮しめたような、写真映りとしてはボロにしか見えない衣装をまとっているのがよく判る。
でも、それらはすべて家庭内でママさん達が手縫いした、いわば愛情たっぷりな衣装であって、けっしてボロをまとっているワケではない。
冬が去って春の日差しがやってくると、人達は分厚くふくれた袢纏から解放されて少し薄着になって街道をそぞろ歩いたりする。
散歩という概念は江戸末期になって登場するけど、"物見遊山"という遊びがある。弁当をもって桜を見に出かけたりする。
ボクが住まう岡山には後楽園という大きな庭園があって、これは基本としては殿様専用のものながら、意外なことに春や秋には庶民に開放されたりもした。
そこで、竹筒に茶をいれ、同じく竹製の串に吉備団子を3つか4つ刺して、長屋の友達と遊山とシャレ込むんだ。
梅の花の白さに眼を細め、春の日差しを味わいつつ、
「太田之助どの。一曲お唄いよ」
と、やるワケだ。すると太田之助くんは、しゃ〜ね〜な〜と頭をかきつつ、
「うんぇ〜ぅお〜む〜〜ぃって〜〜♪」
綺麗な声で唄いだし、梅の古木に座ってたウグイスをもウットリさせたりする。隣りあわせた坊さん達に思わず、
「ホ〜、法華教〜♪」
と、云わせたりする…。
それはさておき、ここで話題を変える。物見遊山やら53次が出たから、”歩く”ことを書く。
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今回の東北関東地震直後の晩には、東京の人はかなり歩いたようだ。
勤め先から自宅までテクテクテク。
電車が動いてないんで、やむなくテクテクテク。
ボクの親族の一人も、都内の勤務先から越谷の自宅までテクテクテク。30キロを歩いて戻ったという。
当然に翌日には足が棒みたいになってたと思う。
ボクも最近は、この地震のだいぶんと前からだけど、ときどき実は、雨降りの時に歩く。
雨降りのさいにはBARへ出向くにはバスを利用するけど、その帰りをタクシーでなく、あえて歩くんだ。
(ボクがお酒にも少し起因する病気にかかってしまって、いまはたくさん呑んではいけね〜よというコトはここでは眼をつむる…)
夜中の3時頃までカウンターで過ごし、小雨になったか、やんだかの頃合いでもって、家までテクテクする。
根城にしてるBARのある場所から家まで、だいたい7キロある。
キロで書くと何だか遠そうだけど、センチで考えると70万センチ…。なんだかどれっくらいを歩くのか判らない感じになるんで自分をごまかせる。
何度か歩いてみるに、だいたい1時間15分ほどかかる。あんまり速くはない。
靴にもよるけど、足の甲のあたりが痛くなる。
でも江戸時代にゃ、皆んな歩いた。

芭蕉ははるか山形方面までテクテクして「奥の細道」を書いた。
お江戸の末期には、高知の龍馬も九州の隆盛もワイエムオ〜、テクテクテクノ〜だ。
たぶん彼らの足は7キロを歩くに1時間もかけなかったろう。もっと速い。

7キロばかりの短距離ではない。途中を船で移動したりもしたろうけれど、たとえば、向かう先は京都であったり江戸なのだから、遠いなんて〜もんじゃない。日本橋から京都の三条大橋までが約500km。これを江戸時代には平均で15日で歩いたというから、一日に、33Km以上は歩く勘定だ。龍馬の場合は高知から京都までがそれに加算され、隆盛の場合はさらに遠い距離を積み歩くんだから、すごい。
しかもワラジだ。
ワラジというのは30Kmか40Kmも歩けば、すり減ってしまう。
だから、東海道を歩くような長期の場合、毎日かあるいは2日に1度は必ず新たなのと取り替えなきゃいけない。
江戸中期頃にこれが10文(250円くらい)から20文の値段だったという記録がある。
ちょっと気がきいた時代劇なら、旅装束の人物の腰に換えのワラジが吊られているのを見るコトが出来る。
そんなんだからワラジの需要は大きい。
今でこそお米を取った残り部分のワラというのはあんまり活用されないけれど、お江戸の時代はワラは万能選手だ。国内で取れたワラの1/3はモロモロな製品になった。1/3は堆肥として田畑にまかれ、残りの1/3は燃料となって風呂でたかれ炊飯にたかれ、火が消えた後の灰はこれまた肥料となって田畑に戻された。
製品としてのワラは屋根になったし、ホウキになったし、カッパになったし、ムシロになったし、袋になったし、それを縛るヒモにもなったし、当然にワラジにもなった。
お百姓は年貢として米を提出しなきゃいけなかったけど、ワラジなどの製造販売まで年貢には含まれない。よって、その売り上げは全てお百姓のフトコロに入る。なにしろ手作り。1足を作るのに1日はかかろうから利益として考えると微々たるもんだ。でも現金収入になる。53ある宿場に持ち込めば必ず買ってくれる宿屋があった。2束3文という語の通り、安く買いたたかれるけど幾ばくかの小遣いにはなった。
ちなみに、東海道は西洋的な舗装路ではないけれど、道幅は京間幅の6間(12m)。砂利や砂で固められて左右には松や栗や桜などの並木が植えられ、よく整備された道だった。
12mだよ。とても広いのだ。時に馬は歩くけど、馬が引く馬車はないから車輪が埋まってく心配はない。路面は石やセメンでなくてイイのだ。
当時、こういった大きな街道は夜中には歩いちゃいけない法律があった。7つ時(午前4時)になるまでは通行してはいけないのだ。
家康がそう命じ、以後300余年、そうだった。家康は盟友たる信長が真夜中に光秀の軍にやられたコトの二の舞を恐れた。ゆえに夜中の街道の通行を禁じた。
だから、あの歌が、
「お江戸日本橋七つ立ち♪」
と唄うワケだ。
ボクのように朝の3時頃まで呑んで… 家路に向かうというワケにはいかない。もう1時間呑んでなきゃいけない…。
もっとも、江戸時代にはそんな夜更かしする人はほとんどいない。

中江克己著の「江戸の散歩術」や石川英輔の労作「大江戸泉光院日記」などを眺めるに、街道沿いの宿屋に旅人は午後の4時前にはチェックインしてすぐに入浴に食事をし、それからちょっとプチ宴会をしでかしたりする場合もあるけど、午後の8時にゃ、ク〜ク〜ク〜、眠っていたようである。で。朝の3時に起き出し、すでに朝食が出来ているんでそれを食べ、4時(七つ時)の鐘と共に宿屋を出立していたようなのだから、げ、げ、元気だ…。
ともあれ、現代のボクはそうやってBARで過ごして店を出る。ワラジではなくってシューズでだ。1日歩いてもすり減らないシューズで歩いて帰る。
江戸時代は、すり減ってボロボロになったワラジは道路の横に置いておけばよい。
すると"拾い屋"という商いの人が回収していくんだ。これは集められて燃されて灰になって売られる。
商いとして成立するぐらいに東海道は繁華に人が通っていたというコトにもなるけど、上り(江戸に向けて)の人は右を、下り(大阪方面)の人は左を歩く。武士はやや真ん中あたりを歩く。でもチャンと上りは右で下りは左だ。
この整然とした歩道環境と人のマナーの良さに、当時日本を訪れた海外の人は皆なビックリした。
元禄の頃にオランダ商館の医師としてやってきたドイツ人ケッペルは「江戸参府紀日記」にビックラこいたと書き、やはり同じオランダ商館のフィッセルはケッペルさんとは少し時代が違うけど、やはり、「ありゃ〜!」と驚いた。
当時のヨーロッパはたしかに石畳のカッコいい道を持っていたけれど、そこに公共の理念はなく、路上には糞便が捨てられ、道の左右には引ったくりや浮浪者がたむろう汚くて危ない場所でしかなかった。だから、日本の道路事情にビックリした。
車はないから交通事故はゼロ。景観の中に電信柱なんぞは当然にない。なかなか良いじゃないか。
さらに加えて云うなら、コンクリな舗装ではないから道は呼吸する。コンクリやアスファルトで覆われていなから地面そのものが息が出来る。
だから夏涼しく冬は暖かめなのだ。ひどく雨が降ればぬかるみも出来るけど、それは大きな問題でない。雨が降ればぬかるみが出来るのはアタリマエなのだから、別段にそれを苦とは人は思わなかったようだ。今の日本は徹底してアスファルトで舗装されているから道自体が夏は猛烈にあつい。冬はキンキンに冷たい。
でも、江戸時代の道はそうじゃない。ぬかるみはお陽様が照り出すと気化されて蒸発をはじめるから、夏場は旅人の足に涼をもたらした。冬場は地熱が微かに放出されてワラジをちょっとだけ温めてくれた。
いまは、平地で舗装をされていない道を探しても、どこにもない。ノスタル爺ぃにはなりたくないけど、ちょっと、そんな舗装されていない道を1Kmか2Kmばかし、歩いてみたいと思う。京都から東京に向けて15日以上をかけて歩いてくってのは、ボクにはとてつもない贅沢に思える。帰りを含めると往復だけで1ヶ月はかかるんだから、すごいや。1ヶ月を超える旅なんて… いまは、とても考えられないじゃないか。

それともう一つ。
これは7Kmをテクテクした経験と、スポーツ店のオーナーとして、また日本でも指折りのテニスのガット張りの名人としてはげみ、最近リタイアして悠々生活に入った知人で尊敬してるマ〜ちゃんの言葉を併せて云うのだけど、今のアスファルト道路というのは人の足に優しいシロモノではないのだった。
スポーツ人間ではないボクでさえ、7kmも歩けば、道路がこっちの足をはねつけ、拒んでる感触をおぼえる。
「運動として縄跳びをする時にゃ、アスファルトの上はゼッタイやめとけ」
と、かつてマ〜ちゃんはご自身の白がまざったアゴヒゲに触れながら云ったもんだ。
「確実に足を痛める。人間の体重や運動量とは無関係だから重みを吸収してくれないんだ。だから傷めたくなきゃ、それに見合った専用の靴を履くこと。今の、マラソンシューズにしろテニスのシューズにしろ、そういった硬質で優しくはない人造路面と人間を適合させるために作ってるんだ。思えばおかしなもんだよな〜」
と。
ゆえにボクは密かに、前記の通り、むきだしの土の地面をワラジで歩きたいとも思うんだ。
それでもって7Km歩けば、どんな感じをボクの足は知覚するんだろうか? と思うんだ。
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