66年前の6月29日

今からちょうど66年前の昨日。
1945年の6月29日の夜中の2時過ぎ。
ボクが住まう岡山市は空襲にあってほぼ壊滅した。
むろん、ボクは生まれてもいない。
爆撃機139機はマリアナ諸島テニアン島の米軍基地からやってきた。
テニアン島と日本の距離は、日本の端から端までの距離よりまだ遠い。
それを最新の航空機たるB-29は途中で給油する事なく飛んできて、爆弾を落として帰っていった。
日本にはそれほどの航続距離をかせげる飛行機はない。
また、1945年の6月時点では、すでに疲弊しきっていて爆撃に応対する力もない。
数年前から、ボクはこの時に飛んで来た139機のB-29が発した音の"怖さ"を、なんとか想像出来ないものかと思案しはじめた。
たとえば今、上空を小型のセスナが一機飛んだだけでも、これはかなりの音なのだった。
それがセスナの比ではない巨大な4つのエンジンとプロペラを持った超大型なのが、139もの大群となってやってきたのだから… その音は耳でなく、腹に響き、背に響き、ガラス窓を激しく強震させ、地面を震動させたであろうと思うのだ。
その音のもたらす効果がどれほどのものであったか… そこを体感として感じてみたいと思うワケなのだ。
が、いかんせん、想像をめぐらすしか手立てはない。
昨日の岡山市のニュースは、例によっての「2度と戦争を繰り返しちゃいかん」の色にまとめられ、「悲惨だった」「罪なき人達が焼かれて死んだ」、よって追悼し冥福というトーンで報じられていて、むろん、それはそれで良しとする。
されど思うに、いつも、B-29という、いわば記号と化した名は、忌まわしきモノとして紹介はされるけれども、その実体はほとんど取り上げられないで… 66年も経っているコトが不思議なのだ。
当時の最新鋭たる飛行機ゆえの航続距離であったし、日本というフィールドの基盤が土と紙と木で出来た家で構築されているコトを熟慮しての焼夷弾であった。
しかもこのB-29は窓はあっても、窓は開けられない仕組みの、気圧の違う高々度を飛ぶための秀逸なる装置でもあって、その秀逸がもたらす最大の恩恵は、その高度ゆえ敵対する日本の飛行機はそこまで登れず、また地上からの応射の弾も届かないという、いわば乗員の安全度が高く、またそれを考慮した乗り物なのだった。
搭乗員達は機内でコーヒーを呑んだはずである。缶詰だかサンドイッチを食べた可能性も高い。
長距離ゆえ徹夜なのだ。
トイレも、狭いながらあった…。
1機に12名くらいの搭乗員がいたようであるから、岡山上空には1668人の米兵がいたことになる…。
そんなバリバリの最新鋭の装置139機、1668名に対して、我々は応戦の術がない。竹槍くらいしか武器はない。
京山という場所に高射砲があったけれど、射手は恐怖に泣いていて一発も撃たなかったという証言もあり、また撃ったとて、それは届かない…。
幼稚園児VS大学生みたいなワンサイドゲーム
それで結果として… 被害者としての見解が強く濃く芽生えて現代に至ってるのだけど、今もって、その被害の側面からばかりの『祈念的』な報道が前面に出ているコトに、ボクは多少なりガッカリしているんだ。
もっと、B-29のコトを、それがどういう性能の、当時どれくらいに高い技術で裏打ちされた航空機であったかを、今だからこそ報じておくべきではないかと感じている次第なのだ。
被害は惨い。
2000人近い人が29日の夜中に命をうしない、国宝の岡山城も焼けた。
多数の文化財が焼けて消えた。
今、ボクが濃く関わっているとあるプロジェクトで、模型として作っている明治期に作られた図書館もそうだ…。


空襲で消失しなかったら、この図書館は重要な文化財として今も大事にされていたろうと思う。
模型化しつつ、実物の消失に口惜しさを禁じ得ないけれども… この66年前の忌まわしき空襲を語るには、ただ被害をうったえ嘆くだけでは、やはりダメなのだろうと思うからこんなコトを書いているワケだ。
一つの記号としてでなく実際の飛行機たるB-29を、肌で感じる仕掛けがたぶん足りていないんだ…。
原爆を落とした飛行機というコトで、この国ではB-29を忌み嫌うけど、逆に、精緻なプラモデルとして販売されるべきモノだと、ボクは思っているのだ。
出来たらプロペラから音が出ればいい。
それが4つ。
その4つの139倍の音を感じるコトがちょっとでも出来たら…。
逆に戦争の怖さと残酷さが浮き上がってくると思っているんだ。こういったカタチの航空機が何故に必要であったのかという、根源の問いの解答がカタチになっているのが… B-29なのだから。