ヒアアフター

雨模様の土曜の夕刻。
A宅にて仕事を打ち合わせ、かなり遅くにもなったのでそのまま居座り、共に並んでDVDを観る。
K氏が年明けにプレゼントしてくれた「ヒアアフター」。
これを観る。
A宅には大きなスクリーンがあるので、ハナっから観る予定で持参していたのだけども… いや、それにしてもクリント・イーストウッドは、やはり、す・ご・い。
巻頭でいきなり巨大津波が起きて多くの方がそれにのまれ、主人公の1人も巻き込まれて生死の境界をさまよった後に息を吹き返す。
この映画が封切られたのが昨年3月で、その直後にあの震災だったがゆえに日本ではそれで上映が中止となってしまった不幸な作品。
けれども内容は、津波が主題じゃない。
兇猛な津波にアッという間にのまれて翻弄され、まさに死を迎えんとした主人公が生還しての… "死とは何? 生とは何?"が主題。
3つのまったく異なる物語が同時進行で描かれる。
英国在住の双子の少年のかたわれ。
米国在住の霊能力者。
フランス在住の女性ジャーナリスト。
まったく無関係の3人。
一体にこの3人の物語がどう結ばれるのか… と、途中でクエスチョンが浮き上がる。
国も違えば、環境も違う。
それを監督イーストウッドは見事につないでくれる。
肉親の死。自身の死。他者の死。
そこに横たわる痛みと苦しみ。
でもそれでも… また新たな出会いがあって、喜びがある。
シーンはいずれも徹底して静か。
激しく感動させてやろうというようなイヤラシサもない。
イーストウッドは過剰な説明をしない。
それゆえの見終わった後の不思議な余韻。
映画という"形式"のみが出来るマジック。
これが小説なら… このようにはきっと描けない。感じさせてくれない。

この手の映画に接すると、スマートでない人はたいがい、「説明がない」とか「意味わからん」とかな物足りなさをベースにした不満を口にする。
そこを自分で組み立てるのが"映画の面白さ"なのだけど。
幾重にも解釈が出来るのが映画の特質ではあるけれど、ともあれ、最後のシーンでの女性ジャーナリストの笑みが素晴らしくいい。初々しいはにかみがあって、それまでのセレブな感触の上に何かが上乗せされるみたいな感情が観ていて湧く。
その直後に霊能力者のマット・デイモン(この人はだんだんロバート・ワグナーみたいな顔になってきたなぁ、いいぞ〜)の妄想としてのキッス・シーンがあって、たぶん、少なくとも、その後の恋愛的交際が想起させられるようでもある。
むろん、一方でボクのようなもうオジサンの年齢に達すると、仮りにその恋愛が生じたとしても、それはいずれはダメになるとも考える。
互いの食事の光景、泊まっているホテルなどなどの相違がこの映画では際立っていて、そこら辺りの経験値としての生活環境が、きっとこの2人の交際の足かせになるだろうなと… 想像逞しくする。
が、そうであっても… それは映画には出てこないその後を、まさに"ヒアアフター"をボクが勝手に空想しただけのコトであって、映画の中では、とにもかくにも出会うのだ。
互いに笑顔になるのだ。
出会いがないと何もはじまらない。
それでボクは、例え唐突に思えようとも、出会うべくして人は出会い、口元がほころぶのだというコトを、再認識させられた。
なので、良い印象が芳香のように漂い、
「これは珍しく… もういっぺん観たくなる映画だな。見終わった後の主人公たちの顛末まで考えたコトって、あんまりないし…」
と、Aに感想をこぼす。
「好きになった人にとても会いたくなる映画だ」
と、もらす。
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すっかり遅くなった。
日付が変わる少し前にA宅を出ると、雲はまだたくさんいるけれど合間に星が幾つか見えてる。
ここがファンタジーの国ならば、ボクがちょいと手を差し出せば、星の粒が手のひらに舞い降りて金貨に変身してチャリンチャリンチャリンと音たてる。それを元手にボクはBARにくり出すのだろうけど… そうはいかない。
都合良くはいかないのが、現実というもんだ。
だからこそ、きっと、生きる旨味があるんだね。
からみや苦みや塩味が判るから甘みを甘みとしておぼえられるワケで、「ヒアアフター」はその辺りも含んでるな…。
奥が深いじゃないか。
…なんて〜コトを考えつつ帰宅したら、また星は見えなくなっている。
なんだか多少に靄(もや)ってる。
霧になるのかな?
面白いな、このうつろいも。