木造の小さな家たち


温かいシーズン中、ボクはほぼ毎日、自転車に乗って近隣を散歩というかポタリングするのだけども、何年か前から景観の中に多々、
「おっ」
と、思えるものがあるのに気づいて、それで携帯のカメラでカチャリカチャリ… 撮ってった。
全体であったり部分であったりはするけれど、主たるは建物、家屋。
倉敷の美観地区に出向かずとも、充分に観光出来ちゃう雰囲気をたたえた家屋が、アッチにぽつり、コッチにぽつりとあるのに気づくと、何やら宝石箱の中に実は住んでたか〜… みたいな小さな喜びもあって、気がつくと、1時間くらいを予定していた散歩は2時間くらいになっちゃってた。
ボクが興をおぼえて写真に撮ったのは、たいがいがチョット前の家。
昭和の30年代(1955〜1965)あたりの匂いがする家達だった。
ただもう懐かしくって… というワケではない。
もう2度とそれらは再生産されないであろうカタチと判っているから、いささかの悲哀がある。
また同時に、2度と作られないであろうカタチゆえに、ボクには逆説的に『新しく』もあった。
それで、撮りためた写真の中から何軒かをチョイスし、時に本物に忠実に、時にアレンジを加えるなどして、ペーパーモデルにしてみた。
その極く一部が上の写真なのだけども、小さなものだ。
小さいから1つ1つの模型にあたえる情報量は多く、ない。

車なんぞは、写真のようにワンパーツ構成だから、自ずとディティールにも限界がある。
でも、ま〜、この場合、それでイイ。
その頃の車は、今の眼でみると、とてもカッコいい。
トヨペット・クラウンに代表される国産車のカタチは、むろんに英国車やらのモノマネでスタートしているワケだけども、ただ単に真似たというのではなくって、マネつつも芯の部分には「何とか自分で!」という哲学みたいなものが感じられる。
そこに数値化されない性質のカッコ良さがあるよう、ボクには思える。
また、この車達は木造の家屋に良く似合う…。

こんな寿司屋さんは、日本のどこにでもあった。
けっして高級で老舗ってワケでもなく、町に1つか2つは必ずあって、当然に家族経営だ。少し大きな店なら見習いが1人か2人いて、主人に怒られていたりする。
日本以外にはどこにもないであろう光景が、昭和の30年代頃まではアッチャコッチャ、日本のどこにでもあったろうとも感じるし、以後、それが薄まって薄まって… 今や無国籍で味っけない、さほどに個性を知覚出来ない光景になってるから、ボクは惜しいなぁ〜と思ってるワケ。
かといってボクは、当時の木造にストレートに住みたいとも思わない…。

このイラストは1959年(昭和34)のシカゴ・トリビューンに掲載されていた『未来のホームライブラリー』なのだけども、手前の奥さんはヘッドフォーンで何かを聞きつつ、天井いっぱいに映った本をリモコンでスクロールさせちゃってるぞ。
部屋そのものがiPadみたいなもんだ。
こういうのも、1つの夢想として、好きなのであって。
で、よく眺めてみるに、ご主人が観てるのは3Dのテレビじゃんか…。
というコトは、このシカゴ・トリビューンのイラストが予測した未来はほぼ実現化されてるワケだね。
でも… 何か違う。どこか違う。
この予測図と現実の"今"との絶妙な乖離もまた、面白い。
未来は追い越せない、と諭してくれるイラストだ。
過去に戻れず未来は遠のき… う〜〜ん、ナンギだね〜。
この絵の中でボクが一番に好きなのは、右側の少年だ。
この子は、この家の夫妻の長男だろう。
テレビにも興味を示さず、天井iPadにも興味なく、ただ暖炉の火を見詰めて黄昏れてる…。
きっと彼女にふられたに違いない。ふさぎ込んで、
「あ〜、こんな家(うち)、出たい。1人になりて〜」
など、ひっそり思ってるような感じが濃厚だ。
ここんとこが、今と同じだ。(^_^;
好きな人に思いが届かない… 
『新しいiPad』になっても… 今も昔も変わらないのが、ここだぞ諸君。