松籟

土曜の午後、県立図書館に行く。
1階の喧噪めく人の出入りとは裏腹、2階は静か。
そこの一室で「木山捷平と岡山」という講座があり、拝聴に窺ったわけだ。
主催者も講師も馴染みだから、気構える所もなく、どこか弛緩したようなアンバイで聴き入ったり、求められてちょっと発言したり… と、アンガイと楽しい時間を過ごしてしまった。

木山捷平は岡山出身の作家で、本講座は、彼の短編「うけとり」をモチーフにして、人と自然との関わりを探るというものだった。
この講座で、ボクは「松籟」という単語があるのを知った。
しょうらい。
松の梢同士が触れあって生じる音をさす。
そんな固有の単語があるホドに、この国には松があったワケだ。松林、というくらいに。
ところが、明治の中頃からこれがドンドンドンドン… 減ってった。
松に変わって、そこいらの里山や奥山に植わっているのは杉や桧だ。
むろん、松の木は今だって眼にはするのだけども、天然ナチュラルな松、松の林はもうほとんど21世紀の今は眼にすることが出来ないくらいに減ってしまった… と本講座で聴かされた。
「あら、ま〜」
と、ボクは少なからず驚いた。
題材となった小説「うけとり」は、明治の田舎の少年の話だ。作家が育った笠岡界隈が舞台のようである。
農家で育つ少年は親の手伝い、というよりも1つの家事として、ほぼ毎日に近場の山で落ちた松葉を拾う。背にしょったカゴがいっぱいになるまで拾う。
風呂焚きやら煮炊きにそれは使われるんだ。
この少年だけではない。どの家庭でもそうやって子は山に入って松葉を拾う。
そこで出会った少女との恋が、小説の本筋なのだけども、ともあれ、当時、明治時代には山には松が多々植わっていたというコトは、すぐ判る。
それがわずか100年ほど経ったコンニチでは、みられないのだ。
なので、「松籟」という語の意味する音を、すでにボクらは理解していない… ワケなのだ。
講座を終えて帰宅後にちょいと調べてみると、この「松籟」に該当する擬音として、江戸時代には「ざざんざ」なる表現があるコトも知った。
その昔の足利家第6代将軍の義教が、「浜松の音はざざんざ…」と詠んだくらいに、普及し、かつ理解されていたのが、松の梢が発する音なのだった。
それが今、音の感触としても、言葉としても、ボクには探知しようがないのだ。
なので、ちょいと驚いたワケなのだ。
短期間のみ総理職につき今また復帰の野望に燃える某アベさんが、お念仏のように唱える「美しい日本の復活」なんて〜牧歌かつ短絡なコトバっ面のみな表現では計りようがない、緩やかな変容が日本の隅々にまで浸透しているワケなのだ。
気づくと、松林がなくなって、その林では必ず聞こえていた「松籟」が失せ、自ずと、その単語も風化した…。
「松韻」とも書いたり云ったり、していたらしい。
生態の変容には当然に人間の関与する所が大きい。また一方で、生態そのものが自浄というか成長というか、子の身長が伸びるように変わっていくから、何が良いとか悪いとかいうレベルで考えると話がこんがらがっちゃうからここでは書かないけども、ともあれ… 日本人はかつて、松が身近にあって、そこで生じる音に名をあたえたというコトだけは、確かだ。
なかなかイイじゃないか。
問題は、ボクがその「松籟」の音をイメージできないところだ。
ボクは竹の林で、竹同士が風に揺らいで発する音を知っている。
それは乾いて、やや高音で、いささか不気味。
笹と笹とが触れて生じる音と共に、立ち枯れた幹そのものからも音が出る。
夜に耳にすると、怖い…。
なので、ボクは聞いてみたいのだ、「松籟」を。
どんな情感を起こされるか。そこに興味を濃くおぼえた。