桜ほろ散る… うなでがもり

1日の朝7時前、県北の従姉妹より連絡。身内で最年長だった従兄が亡くなったとのこと。
「この電話がエイプリルフールならね〜」
と、思わずこぼしてしまうのだった。
従兄はボクより18歳も年長なのだけど、実際にはそんな年の差を感じさせない人で極めて懇意な間柄。
津山は二宮、桜町。院庄(いんのしょう)近く。高野神社そばでながく八百屋けん魚屋けん日常雑貨を扱う奥村商店(食品センター奥村)の主だった。

高野神社は、いまはタカノと呼ぶようだけど、ボクが子の頃にはコウヤとよんだ。
山門の左右に色が抜け落ちかけた対の怖い顔の仁王がいて、石段を登ると広い空間の右手側に本殿。
そこへ至る参道入り口に大きく奇怪な形の古木がある。
万葉集に出てくる。
通称うなでがもり。
漢字で、宇那堤森と書く。

樹齢は知れない。中央で裂けて黒々とし、何やら怖い椋(むく)の木。
その昔々に、この木が割れ、中から白い大きな蛇が出てきて空へ舞い上がった… と子供の頃に聞かされた。
その壊れたような異形を見ると、なるほど、でかい蛇が出てきてアタリマエな感触が濃厚にあった。
すでにボクが子供の頃から石柱で木は囲まれていて、直には触れられないようになっているのだけど、元より、鎖で結ばれた石柱を跨いで中へ入る気はおきない。
蛇は苦手ながら、白いそれが天に昇ったとおぼしき形骸としてのこの古木に子供のボクは、あんがと好意を寄せたもんだった。
足穂が云うところの"ファンタジューム"系な消息をきっと感じ取ったんだろう…。
それに、ウナデガモリ、という言葉の響きが好きでもあった。
モリというからには、大昔はそこが森だったのか… と子供のボクは勝手な想像に身を委ねてたけど、実際そのようだ。

院庄という地は、およそ600年ほどの昔の鎌倉時代後醍醐天皇隠岐に移送される途中、彼を仰ぐ児島高徳が兵を連れなって天皇を奪還すべく奮闘するも、警護の厚みにはばまれ達成叶わず、天皇宿泊の院庄の館そばの桜の木に漢詩でもって後醍醐宛の一句をしたためという… 場所。
太平記」に記述されるこの忠臣忠君ぶりが顕彰されて、それで明治のはじめに「作楽神社」が出来、やがて唱歌児島高徳」が出来上がる。
高野神社と作楽(さくら)神社に直接の関係はない。高野神社の歴史ははるかに深い。
ないけれど、2つの神社は近い。
わけても、その宇那堤森の近隣。奥村商店のすぐ近く。子供の頃、ボクがほぼ毎日のように通って遊んだ場所だ。
友と群れてたわけじゃなく、宇那堤森のある参道から高野神社境内一帯はどういう次第か… 1人でいるのを好むような場所だった。

近くに、津山製材だったっけ、もう名は忘れたけど大きな製材所があって、そこはいつも新鮮な木の匂いにくるまれていた。
大きな輪っかにカットされた木々の綺麗な年輪とその色彩が、たぶんボクは好きだったんだろう。
山になったおが屑の中に両手を根元まで入れて感触を愉しんだりして、そこで働いてるオトナに「シッ、シッ」と追い払われたもんだけど、不思議なほど、記憶の中の色彩が鮮やかだ。
雨後の濡れたおが屑の上を歩くとまったく音がしないことに変に感心し、シューズをおが屑だらけに汚したけども、その感触をこっそり大いに愉しんだもんだ。


従兄の通夜と葬儀。
この2日間、久しぶりに宇那堤森界隈を歩いてみると、少年の頃の背丈からの景観と今の背丈やメダマで眺める景観は、やはり色々な部分が違ってる。記憶違いもある。
ま〜、そりゃ当然だ。
いつか司馬遼太郎芭蕉の『奥の細道』を引き合いに、
「景色がひどく変わっている方が想像が働く」
という旨を告げて創作(歴史小説の)というのが何であるかを語っていたけど、いっそ変わっていた方が得るもの多しというコトもある。
巨大に思っていた山門はさほどに大きくなく、子供の頃にはその内部にあった仁王像もそこになく、たぶん今は神社内の宝物館に収納されているのだろう。
石段も子供の頃に感じた急斜でもないし、段数もたいしたことがない。
境内入り口の宇那堤森の椋の木は、これはたぶん、より裂け目が大きく拡がっているよう思え、畏怖な感触がやや薄れ、開きすぎたチューリップの花を想起するような大味をおぼえるようでもある。



けれどともあれ、はるか昔に遊び呆けた場所にさらに数百年の歳月を重ねてみると、眼前に鬱蒼たる森が現れる。
ブライアン・W・オールディスのあの『地球の長い午後』の成長につぐ成長の衝動だけの森じゃないけれど… 椋の巨木が猛る昼なお暗い森。
やがて出雲街道と呼ばれることになる、か細い獣(けもの)道。
その小路を護送される天皇と警護の夥しい兵士やそれを密かに追って樹木の影に潜む児島ら少数の人の群れが見え隠れる。
前賢故実』に添えた菊池容斉の挿画では、カモフラージュだろうか全身を蓑で覆った児島高徳が周辺に眼を配りつつ密かに桜の木に漢詩を彫り込んでいて、なかなかビジュアルとして屹立して説得されるけど、ボクは児島にそれほど思いが飛ばない。
ただ、たぶんその頃にゃ深閑として鬱蒼と茂った樹林で、大勢と少数の2つの、やがて南朝北朝に二分して対立すべくな群れが密かに蠢(うごめ)いたであろう処にチョット眼がとまる。


いや待てよ、はたしてそうかな?
森のすぐ傍らが幅広い吉井川。浅瀬と深瀬の狭間で音たてる流れ。
後醍醐の一行が川沿いを通行したか、川を舟で登ったか… そこはもう判らないのだし、判ったところで、舟のディティールまで知れはしない。
だからいっそ、想像をめぐらして自分でかつてを組み立てた方が面白い。
なにより、児島高徳と宇那堤森は別種で別時代のこと。
けどもまた、この両者はボクの中では1つの塊りとして配されて、ひさしい。


18も年長ゆえ子供の時分、従兄とはただの1度も共に遊んだことはないし、直接に、天然記念物として保護されている椋の古木と彼は結ばれない。でもたえず、彼とその宇那堤森と児島高徳の桜は… 傍らに"居て"くれてたな… と、そのことをあらためて自覚する。

従兄が亡くなったから、ボクが二宮の宇那堤森の傍らに立つことはもう… あまりないと思う。
縁が切れるというのではないけど、遠のくであろう感覚が微かに、でも極めて確固に兆すのが、悲しい。
葬儀の日、奇しくも辺りは桜がみどころ。

桜ほろ散る院庄
遠き昔を偲ぶれば
幹をけずりて高徳が
書いた至誠の詩がたみ