花見御前

市内某所。
デッキから大きな池を望める某さんのお宅。
宅のすぐそば、池の横手で桜がおごる。
束の間といっていいような雨のない1日。
仲間数人とお邪魔して… 花見御前。


日常こういう食にボクは接しないし、"食こそ命"の女主人のもてなしゆえ、晴れ晴れしいような初々しいような、嬉し恥ずかしな心持ちで春の景観と食を楽しむ。
断固凝って時間も手間も費やしている筈ながら、そうは見せずの品が香る料理の数々 with お酒の数々。
こたび初参加のモンゴルのナチン先生いわく、
「モンゴルに桜はない。けどもしょっちゅう、何か口実をつけて呑みますね〜」
というわけでトグトーヨ、乾杯だ。


ベランダデッキから釣り糸を垂らせる住まいというのは… そうあるもんじゃ〜ない。
次に太宰府に流されるなら菅原道真公は天神山の頂きでなく、ここにお立ち寄りになるがいい… というくらいに清廉でのどやかな上にいっさいが巧妙に配置されて、ま〜、それゆえ専門誌で大きく取り上げられたこともある、宅と借景が連なる良性な空気の在処。
ボクにとっては「トンネルを抜けると雪国だった」な鮮烈じゃあるけど、日々ここに住まう人には新鮮とは何だろう? 日々それは更新されるもんだろうか? いやきっとそれは更新されるもんだろう。ましてや春。地表の緑が刻々濃くなって変化が受粉して新鮮は装いを新たにする。
こういう環境にいればきっともう下界に出かけてくのを煩わしいと思うようになるんじゃなかろうか。少なくともボクならそうだろう、出不精がより強化されるに違いない。
そこのところを女主人に問うと、
「実はそうなのよ。山姥(やまんば)になる…」
実にうまく表現されたので、大いに笑う。



ボクが知る山姥の話は3つあるけど、わけても好きなのは山姥の自宅の天井裏に隠れた馬吉だか名は忘れたけどが藁のなが〜いストローで彼女が作ったご馳走を盗み飲むオハナシ。どういう次第か、それは粕汁であろうとボクは子供の頃に想像して、以後、粕汁といえば山姥を思い、山姥といえば粕汁を思ってお腹がすく。
なのでヤマンバ大歓迎。


デッキの下へ鴨がくる。
桜の花に鳥が顔を突っ込む。
旬の食材。
美人が4人。
淡麗な色。淡い香り。
影の中の光。光の中の影。



どんどん和らぐな〜。
「ご同輩。良い花見ではござらんか」
モンゴルの巨人におっとり云うと、先方もおだやかに細い眼をいっそう細め、
「ムフフ」
ほころんで日本酒をクイッとあおる。
あれこれ箸をつけ、桜のお汁を堪能し、筍ごはんをおかわりする。


食後に居間から厨房脇の食堂に移動し、茶をすする。
白小豆のお汁粉を頂戴する。
「へっ? 白いアズキ?」
と、それでまた話がふくらみ、またぞろアッという間に時間が過ぎる。
竜宮城では時計が早廻りするというのは本当だろう。
竜宮に山姥はそぐわないけど… そこはそれ、新たな物語を編めばいい。