唐人塚

龍ノ口山(岡山市中区)の南面。
そのふもとに、唐人塚という古墳がある。
カロウトヅカ、と読む。
でもボクはト〜ジンヅカと口にして久しい。


名は明治頃だかに定着したもので、渡来人の墓という確証はまったくない。
玄室中央の石棺は竜山石というのを工作したもので、これは兵庫県高砂でとれるものらしい。高砂市には竜山石採石遺跡というのがある。
そんな石をわざわざ運んで加工したんだから、相当な身分というか勢力を持った人の墓であったことはマチガイない。
今みても、ちょっとビビるくらいに玄室はデッカイ石で構築されている。
界隈で上道(ジョウドウ)という豪族が大きな勢力をもっていた3〜4世紀のものらしいが、そことのつながりも不明。
古事記」によれば、かつて吉備国はそれら豪族の集合体で、今の兵庫県加古川まで拡がっていたらしいから、加古川の流れを国境に、西は広島方面までを"国"としていたろう。
竜山石の棺は、だから自国製だったともいえる。


今は往事の面影もなく、唐突に玄室部が露出の状況ながら、おそらく前方後円墳のようなカタチで大きく盛土された領域が拡がっていたろう。
(墓の上は現在は駐車場になっている…。アチャ〜。)
山裾のほんの少し高い場所なので、岡山の平野が見渡せたはず。墓所としては立地がとても良い。
数百人規模での大掛かりな工事が想像できる。造られ埋葬された頃にはお椀型の盛土の白さは遠目からもソレと判っただろう。



この前、ひさしぶりに自転車散歩をし、その唐人塚あたりに出向いて、
あじゃ〜!」
アッケにとられたのだけど、塚の真ん前までが宅地になって、民家が建ってる。
数年前まではそこからは平野の広がりを眺望出来たのだけど、景観がガランと変わって、一瞬、場所をマチガエたかなと思うほど。
「なにもこんなトコロに家を建てなくとも…」
宅地化による地域荒廃を感じないワケでもなかった。


唐人塚も草木が茂り、荒れるに任せで、手入れされているとは云いがたい。
すぐそばにまで民家が進出したから、この先いっそう、ここを訪れるヒトは少なくなるだろう。
民家が目隠しになって、塚の在処を判りにくくし、さらに悪いことに、数年前まではあった案内看板までなくなってる…。
良い傾向とはいいがたい。
有力者だったらしきだが埋葬者が誰であるかが判らないというのも、大事にしなきゃ…、の心意気をそぐマイナス要素だ。
でも長大な歳月を経て、玄室がかろうじて残ってるんだからね。もっと、チャンと管理して保存に務めて欲しいなぁと願うよ、行政の方に。
石室の上に植わった木が育ち過ぎ、放置すりゃこれはいずれ、石室を崩壊させるよ、きっと。
根ッコは石を穿つ力を持ってるから、ねッ。根気っていうくらいだから、ネ。



岡山という地のヒストリーは、どこか歪んでる。
というか、吉備国であった情報があまりに少なすぎる。それに加えて桃太郎伝説がからむから余計、歪みに拍車がかかる。


龍ノ口山の別古墳からは、明治期に卑弥呼時代の鏡が出土もしている。
三角縁神獣鏡
11面も出た。
それは卑弥呼が魏の皇帝から賜ったもので、全国の首長に権力誇示のために配ったものの1部という説があって、そうとなれば、それを11面ももらった岡山(吉備)の勢力というか"国"は、ひじょうに大きな存在であったはず。
ただボクはこれらは吉備国での複製品と考えてる…。逆にいえば、それだけの技術立国ともいえるワケで。


ちなみに、龍ノ口山の古墳から出土の鏡たちは、発掘直後、即座に持ち出され、以来ずっと東京にあって、この岡山ではほとんど知られていない。
明治は天皇家支配を絶対視する方向で動いていたから、こういう"危うい"出土品は隠蔽すべくな配慮があったかもしれない。
去年の末頃から2月まで、やっと里帰りして県立美術館で公開されたけど、唐人塚の荒廃ともども、不遇な吉備な王国という印象がぬぐえない。



大化の改新以前の…、4〜5世紀頃の大和朝廷の侵攻と征服は苛烈であったに違いない。そうでなくば、こうも吉備国のことが判らんという事もないはず。
要は、吉備国なんてハナっからなかったという勢いと意志による侵略破壊が行われたのだろう。
おそらくは唐人塚もその時点で暴かれ、盛土を剥がれ、遺骨も破棄されたんだろう。ツタンカーメン王墓に比すれば脆弱極まりないものだったかもしれないけど、副葬品も多々あったはず。金銀珊瑚に数多の鉄器や勾玉も奪い盗られたろう。
墓の破壊は攻める側ではそれがとても有効な手段だし、攻められた側はご先祖を祀る大事な墓所を蹂躙される事での衝撃がでっかい。


大和朝廷卑弥呼の関係はよく判らないし、仮説だてれば幾筋もストーリーは描けるけど、その時期、大和朝廷吉備国の均衡が崩れ、そこで武力によるドタバタがあったのはマチガイない。
豪族同士でも内紛し、朝廷側についた族もあったかもしれない。
出雲地域と同様に吉備は鉄製造の技術の高さと、それを維持出来る山々が多数にある地帯だし、なんといっても、塩の生産拠点であったことがポイントだ。
塩の製造を支配するというのは、とんでもなくデッカイ。
内陸の奈良を中心の朝廷側としちゃ、そこはゼッタイ押さえたい…。
かつて最近まで我が国でもソールトは国の専売だった。大英帝国支配の隷属下のインドが自立に目覚めるのは、ガンジーやネールの例の「塩の大行進」だった。



征服者は破壊と消去に徹するも、けっして地元民を根絶やしにはしない。
ターゲットは若い女性たち。強制か合意か、そこは判らないけど…、女性たちはそれで征服者たちと関係し、子を産む。
卑弥呼以前のはるか1000年の昔の秦の統一は、この婚姻による"侵略"ともいえ、こういうのは一神教の世界ではありえない手法だろうが、大和朝廷は中国式を模倣した。血縁による定着の既成事実を積み上げるというワケだ。
そうやって血が混ざり、10数年も経てば、文句不平がいえない人脈構成ができあがる。
この時点で真の意味での制覇が完了する。
吉備津神社吉備津彦神社はその征服者たちのもの。悪しく云えば、屈した元々の岡山ビトのものではない、侵略者の"勝ち誇り"のランドマークだ。
ま〜、それはどうでもいいことだけど、今をいきるボクとしては、1つの古墳が大事にされていない現状をチョイ憂いてるという次第。
どうにも歯がゆい光景だったんで。



※ 唐人塚の石棺。2mを越す長さがあるから、かなりな大男か大女だったのかもしれない。今は天井からの水滴がたまりにたまって…、プール状態。もう何年も管理されていない証しだ、な。