電車を待っている…


真夏が遠ざかった今日この頃になって、パッションフルーツが開花した。
葉を茂らせるのもヤヤ遅く、暑熱の盛りのグリーンカーテンをと望んでいたものの…、南洋系の植物にとってもこの夏は暑過ぎたのかしらん? と訝しむ。
いわばカーテンがカーテンを強いられるのを拒絶したようなもんで、植物のちょっとした意志を感じないワケでもない。



近頃、就眠中の夢ときたら、も〜宇宙規模に壮大でハチャでメチャで、楽しくってしかたないんだけど、時に反動みたいなのもある。
昨日のがそれで、どっかのローカルな駅のホームで電車を待っている…、という、ただもうそれだけなのだった。
で、何をしてるかといえば、あまりに退屈なんで、ホームにいる他の人を眺めてみたり、タバコを吸ってるワケだ。
どういうワケか電子タバコにまちがって火をつけてしまい、しかし、慌てるのもカッコ悪いから、そのまま吸い続ける。
電子タバコのプラスチックの容器が熱で溶けてく"描写"がやたらに克明だったけども、基本としてとにかく電車を待ってるだけなんだから…、も〜メチャに退屈な夢だった。
いったい何時まで待ちゃ〜いいのか?
と、夢の中で呆れてるようなアンバイなのだった。



しかし夢というのは、"見ている"時間は、そのドラマに比例してイコールなのか、あるいは瞬時のものなのか?
いわば脳内での電気信号ゆえ、パソコンが小難しい計算を一瞬でやってのけるのと同様、夢とても実は一瞬なんじゃなかろうか?
ただも〜電車をひたすらガマンで待ってるだけの夢が、もしその時間軸通りの速度進行なら…、ホントに退屈なコトこの上ないワケで、
「カンベンしてくれや〜」
な、感想しかない。



この数日は、とある神社の拝殿模型の、その屋根をめぐって…、ナンギしている。
すでに実物のそれは現存していなくって、かなりエエ加減な絵が一枚残っているきりだから、想像で埋め合わせるしか手がなく、さてそうすると、想像というのは幾重にでも羽ばたけるもんだから、ハタと気づくと袋小路に入り込んだように、幾つものサンプルを造っちゃ〜、
「ぅぅん、絶妙に違うなぁ」
時間を浪費したというか、いや逆に充実したというか…、それすら判らないようなアンバイで、しまいに、
「ま〜、こんなもんだろ」
諦観含みの確定というていたらく。
あんまりヨロシクない。


ちなみに、神社といえば赤(朱)い色の建物が連想されるけど、この岡山ではアンガイ少ない。
ヘタすると神社とお寺の区別がつかない。備中高松稲荷というか最上稲荷などは日本三大稲荷の一つじゃ〜あるけど、実体はお寺さん(日蓮宗)だったりする。
我らが甚九郎稲荷の拝殿は朱色だけど、これとて戦後のもの。はたして明治にこれのオリジナルが造られた時はどのようなカタチとカラーだったかしら?
そういうのを空想するのは楽しいけど、いざ模型に置き換えるとなると…、あれこれ、やはり思考錯誤しちゃって、歩幅が小さくなる。前進しない。
待ちぼうけの夢は、そのような状況が反映したんだろか?