いまだから『2001』

吹田の「太陽の塔」。48年ぶりにレストアされ、内部公開がはじまって盛況のよう。感慨深い。
当時、高校1年だか2年。父親が高槻に宅を持っていたから(よ〜は別居してんのね)、春と夏の長い休みにそこを訪ねて根城にし、小学生の弟を連れては博覧会会場をウロウロしたもんだ。
太陽の塔入場は春夏2度トライしたけど3時間待ちに耐えられず、だから見ず終い。
ペットボトルも缶コーヒーもない時代で、しかもトンデもない数のヒトで埋まった会場。弟が迷子にならぬよう手をつなぎ、ただジ〜ッと寒さ暑さに耐えて待つのは、苦痛だった。緊張して汗ばんでいる弟の手の感触を今もおぼえてる。
いまだ、スーパーのレジでさえ並び待つのが大の苦手なのは、大阪万国博覧会がトラウマになっている。
(博覧会前年の1969年に自動販売機を富士電機が発明し、会場に導入。紙コップにコーヒーを注ぎ入れる装置が230台設置されたらしいが、コイン投入口に100円札を入れようとするヒトが続出でかなりトラブッていたらしい。それを後年知った。でもま〜、当時知ったとしても使わなかっろう、小遣い少量だったから)


…けどもだよ、塔内が再公開されたとはいえ、予約とって出向きたいホドでもないのだ。むしろ見ちゃえば…、今まで発酵させてきた良きイメージ(見なかったゆえボクにはかなりインパクトある施設だ)が崩れるようで、それを怖れる。


あの巨大な「生命の木」のイチバン上には猿人やネアンデルタール人が置かれ、等身大フィギュアたちは太陽(天頂側)を崇めているらしきカタチをみせている。
一方、現在は失われて写真資料の中でしか確認できないけど、岡本太郎は塔の外周(お祭り広場の屋根の中)展示で原爆と月面写真とをコラボレーションさせ、その手前に得体知れない不信な人物の彫像を置いて、"人類の進歩と調和"のテーマに一種の翳りを現出させていた。
(塔内入場しないと「お祭り広場」の屋根部分展示は見られない)



岡本はノ〜テンキな明るい未来を信じてはいなかったんだろうし、けどもヒトは歩まねばの…、ブレの振幅をばそうやってアート化したとも思える。
太陽讃歌たる塔の周辺に、胎児や棺を含め、生と死の脈動を置いた岡本太郎は、やはり偉大な作家だったと云わなきゃいけない。
太陽の塔」は1つの象徴的モノリスではあるけど、幾つかのオブジェを含む「お祭り広場」構想こそが大事、アートの核心だった。



その祭祀空間としての全体が理解されきっていない気配が濃厚ゆえに塔だけが残されて、これぞ片手落ちな偏頗の典型とも思えるけど…、岡本太郎の思いと『2001年宇宙の旅』でのキューブリックの考えは、カタチは違えどダブッてみえる。製作年も近い。
岡本が1968年に公開された同映画を観たかどうかは知らないけど、キューブリックと岡本の感性がいみじくも別角度でもって同じ1点を指し、同心円をめぐる点Aと点Bというような軌道上で、凜と共振共鳴しているような気がしないではない。ささくれた60年代の殺伐のさなか、そのチマチマから離れ、2人の感性はより飛翔したイメージとしてヒトの根源と行方を見詰めていたというようなところで。



※ 朝日新聞ネット版の記事。その画面写真。


さて今日は朝の早よから『美しく青きドナウ』と『ガイーヌ』が頭の中でリフレーンし続けている。『2001年宇宙の旅』の典雅な映像がゆるやかにめぐっている。
キューブリック没後販売のBlu-ray仕様版。その特典映像中で、美術評論家パミール・パグリア女史が、おもしろいことを言っていて、それでイメージがうごめいている。


かの猿人が拾った骨をはじめて"活用"し、水呑み場の主権争いを繰り返していた他勢力のボスを殺害して、嬉々と昂ぶってそれを宙に投げるや、転じて軍事(?)衛星となるあのシーンを指し、
「男性原理に基づいた映画だ」
と、女史は言う。



同特典の他の数多のコメントはもっぱらテクノロジーのこと、異星人の存在、あるいは転じて神に言及したりと、どこか映画後半の、その表層にそくした見解に終始しているから、女史の、闘争本能の発火をめぐる男性批評としての視線が、際立った。


男性原理があるなら当然に女性原理もあろうし、定義の中心をどこに置くかでもハナシはまたコロッと変わる次第ながら、1つの見立てとして、とても興味深かった。
昨今のAIの進捗に関しては、その自己判断能力に関して色々な見解があって、この前亡くなったホーキング先生やビル・ゲイツやテスラのCEOらは、「へたに開発すれば危険」と危惧しているけど、そこには男女の性差までは入っていないようだから、それで興味深く拝聴した。



※ カミール女史


女史の発言を延長すると、HAL-9000が冷凍睡眠中の科学者らの命を絶ち、さらにプール副船長を殺害するのは、その男性原理に基づいた生存本能、すなわちHAL-9000は闘争を主体にした男性という属性をもったAIコンピュータ(人工知能)というコトになろう。
ま〜、もとよりその声は男性のそれではあるけど、ではもしも女性原理に基づいて学習したAIであったなら、"彼女"ははたしてヒトを殺さなかったか…、などと考えてみるのもまた一興だ。



ボーマン船長に回路を切断されるさなか、HAL-9000は憐憫の情を喚起すべく懸命に哀願をし、果ては例の、
「ディ〜ィジ〜 ディ〜ィジ〜♪」
Daisy Bell」を謳いだすけど、もし女性原理に基づくものなら…、突如な反撥に転じ、
「もうエエわ、知らんわ、勝手にして」
逆にボーマン船長を困惑させ、回路切断を中断させたかもしれないし、その結果としてボーマンが未知の旅に連れ出されるのではなく、HAL-9000が旅に誘われる…、というようなさらに飛躍のSF映画になっていたかも、だ。


男と女を定型の鋳型で造型してしまうのもペケだし、定義としての原理はそう単純でないし、しかしでも、自分の日常中の男女差は歴然と色々な場面で生じ感じるもんでもあるから余計、興味深い。
2001年宇宙の旅』はご承知の通り、ボーマン船長は変容し幼児の姿となって地球のそばへと戻ってきて映画は閉じられるけど、思えば、その変容進化は、男性的、あるいは父性的なものでもなく、赤ん坊姿ゆえむしろ、母性的な感覚としてイメージされる。
たぶんパミール・パグリア女史はその辺りの消息を、ついたんだろう。いわゆる「スター・チャイルド」という月並みな一語でもって変容進化をSF的飛躍で語って納得してしまうコトへの、ちょいとした警鐘にもとれる。
近年、自分の中で映画『2001年宇宙の旅』が色褪せしはじめてるな…、とも感じてたもんで、女史の見解は生殖と進化といった実領域なドアの近場まで運ばれるようで…、湯が出ると思ったシャワーから冷たいのを浴びたようで、な〜かなかハッとさせられた次第。



2001年宇宙の旅』は1964年頃に企画が動き出し公開されたのが1968年。アポロ11号月着陸の1年前という時期だから、もうかれこれ54年が経過してるワケながら…、退色しつつもまだまだ光輝と香気のある作品なのだニャッと、実感再認識。
強いて遜色部分をあげるなら、ヒトが造りだしたAIの行く末と顛末ということになろうけど、そこまで60年代のキューブリックに求めるのは酷だ…。
だけども彼がAIのことを、後年になって映画で描こうとしていたのは間違いない。スピルバーグがその企画と志しをついでかの『A.I.』を造ったけど、キューブリックが生きてりゃ認めないであろう甘い結末。駄作でしかなかった。残念。
ピーター・ハイアムズ監督の『2010』も良くはなかったね〜。原作のA・C・クラークの視点が悪すぎ、かつ浅すぎた。



※ ハイアムズ(右)とクラーク


ハイアムズ監督はキューブリックのようなアーチストでなく職人としての監督というイメージをボクは持っていてアンガイと好きな監督の1人なんだけど、この映画では…、いわばクラークというカイコにジワジワ蚕食された桑の葉ッパという印象で、いささか気の毒を思ってる。(悪くないシーンもあるんだ)
2001年宇宙の旅』は「スター・チャイルド」の地球への帰還というか接近で終わったから、その接近の後日談、"彼"がどう地球に向けて振る舞うか、どのように感性が変容したか…、あるいは彼が帰還したのは何時の頃の地球なのか?…、そのあたりを観客は観たいし知りたかったはずだったし、よりブッ飛んだイメージの擾乱を期待したはず。
2001年宇宙の旅』が公開された時点で観客はもう後戻り出来ない人類進化の領域を見せられたんだもん…、その後を知りたいと思うのが当然だ。
けどクラーク先生はそれを描けなかった。人間視点の小さな世界観を掲示するのみで、キューブリックの映像による跳躍を、踏襲も継承も出来ずだった。
木星の崩壊と大陽化の直後に"テキスト情報"として未知からのメッセージが届くというチチンプイプイな描写の陳腐は、ビッグバン的失望だった。



今じっくり『2001年宇宙の旅』を顧みると、猿人のシーンがやはり素晴らしい。
いっそ、木星行きディスカバリー号の後半より、太古の夜をおびえて過ごしていた猿人たちの姿と変容がこの映画の要め…、とも思える。
だから極論的大編集として映画を15分のものにするなら、放りあげた骨はラストシーンの幼児に結んで、月面でのモノリス木星行きディカバリー号もどことも知れないロココ・スタイルの室内でのシークエンスも、余談なエピソードとしてカットしなきゃいけない…。(あくまで極端なハナシですぜ)



1968年の公開時には、同年公開となった『猿の惑星』のサルに評価が集中したけど…、どう眺めても『2001年宇宙の旅』の猿人どもの方が、はるかにリアルで素晴らしい。下肢の中央にちゃ〜んと性器もぶらさがってるし、あまりに毛深いので男性女性の区別も一見わからないけど、しげしげ眺めるに仕草や立ち位置で女子の猿人もいると、おぼろに判るし。
あらためてキューブリックの晴眼に、さらにはメークを施した方々や演じた役者たちに喝采をおくりたい。かのチューバッカの原型はここに有り、とも思えるし。
しかしチューバッカは毛に覆われているとはいえ、どうして彼だけ全裸なんだろう? 数多の映画の中でイチバン、そこが判んない。


それで、もう1つ書き加えておきたい。
パミール・パグリア女史の言質を補強拡大するワケでもないけど、かの猿人が骨を武器として認識し歓喜して宙に投げ上げたと同時に、彼の中に「信仰」という新たな概念もまた産まれたんではなかろうかと、そう思ったりもし始めている。



骨に自身を託したことで、得体知れない新感覚としての「信じ仰ぐ」が発生したというような。
骨はもはや骨ではなく武器に転じ、同時にそれは武装(よそおい)の概念の習得であり、またそれこそが男性原理の発露(スタート)であり、彼をして哲学させるにたる要素の到来だったというような。
だから飛躍して考えるに、その哲学は自身の身を何かで保護するという新概念を生み、同時に羞恥にも結ばれ、下腹を覆う装い…、パンツを考案し身に着けたのは、女性でなく男性であったろう…、とも。
下着の歴史は男性原理にはじまると。


以下は個人的な懐古として。



※ プール副船長を演じたゲイリー・ロックウッドが来日したさい、御本人から直に頂戴したサイン。奇しくも「2001年」の1月7日の午後だったよ。彼は太っていて映画の精悍な面影はまったくなかったけど、眼だけはプール副操縦士のそれだった。
この2018年で確かもう81か82歳の高齢だ。お元気をいのる。
ガクブチごと写したのでチョット反射しちゃったワ。



※ ハル-9000の"眼"部分の実寸サイズ模型。眼が豆球だから今時のLEDに交換した方がよいかとも思ってるけど、いまだこれを…、自宅のどこに置いたがいいか決められないまま放置してる。




※ スペースポッドの模型。80年代にTVC-15ブランドでこれを造った(原型製作は当時一緒に起業したSuefusa君)さいは、自慢じゃないが市販品はまるでなく、数年後には英国と米国で複製品が出回って面喰らいもした…。
内装のある完成模型はYokota君が製作。



A・C・クラークを批判的に書いたけど、ただ1作品のみ、いまだ再読する作品もある。4年に1度くらい、むしょうに読みたくなってページをめくる。
幼年期の終わり』だ。
いまだこの長編は錆びない。色褪せない。
三島由紀夫が「うちのめされた」というような発言をしたのも頷けるし、三島を持ち出すまでもなく燦然と輝く名宝、4年に1度のオリンピックなお祭りだ。
なのでこの1冊はベッドサイドに駐屯、書棚に安置されたコトがない。


※ 最近はすごくヘタな訳本が出てるので要注意。ボクの愛読は沼沢洽治(コウジ)訳の創元推理文庫。表紙も失ってかなりボロボロですが一語一語が勃っていて古びない。この訳版でのタイトルは『地球幼年期の終わり』。これのみは福島正美訳の『幼年期の終わり』の方がカッコ良いです。