吾妻ひでおとモスラ饅頭

先日夕刻、Eっちゃんから吾妻ひでおが亡くなったという速報を聞いて、

「えっ!」

 絶句したのだった。

 けどしかし、打ちのめされるようでも、悲嘆の激情が沸きあがってくるようなものでもなかった。

 数分後には、妙に淡々とし、亡くなった事実は事実として受け入れつつも、アタマの中の吾妻ひでおは永遠に消失しないであろうと確信して、なんだか納得したりもして合掌した。

 

 久しぶりに彼の『失踪日記』を引っ張り出し、巻頭のあたりを再読。

 失踪していた頃の詳細、あのホームレス生活を、こうも明るく描ける才能の方向性にあらてめて感心するのだったけど、吾妻ひでおの絵は吾妻ひでお自身を救済し続けたという感想が始終湧いて離れない。

 

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 その昔、ぼくが模型業界入りしてちょっと経った頃、東宝映像から限定版権とって、『モスラ饅頭』というのを販売した。イベント用に造った白餡の饅頭で、総社の◎◎◎屋という和菓子屋さんで製造してもらった。

 表面に薄く餅があり、これでカタチを成型していた。

 1986年7月号の『S-Fマガジン』で吾妻ひでお野阿梓が、『モスラ饅頭』を取り上げてくれたことがある。

 吾妻と我が接点は唯一、その記事とイラストでしかないのだけども、それだけのコトゆえに逆にいつまでも糸が切れないんだった。彼の絵に足はないけど、饅頭にはチョボチョボっと複数の足が造形されていた。そこは餡が入らず餅だけだからモチモチしてた。

 

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 記事ゆえにか、しばらくは通販で饅頭を求める人が続き、郵便為替や現金書留でもって代金が送られてきたりした。仕方ない……。そのたびに総社の和菓子屋さんに連絡し、ごく少量を造ってもらい、バイクに乗れるスタッフにわざわざ取りに出向いてもらったりした。

 たしか、8ケ単位で造ってもらい、それを1パックにして、ケッタイな”取り扱い説明書”付きで販売したと思う。

 和菓子屋さんは手で捏ねて造る。だから1つ1つ顔が違い、眼の位置や足の位置が変わり、愛嬌があって、正直を申せばモスラには遠いカタチなのだったけど、ぼくが関係した模したカタチとしての”模型”の中、唯一、あま~~い作品だったから、接着剤はいらないけどお茶は必需だった。写真を撮ってるハズだけど、もう容易に探せない。

 昭和36年公開の『モスラ』第1作めを製作中の東宝撮影所で、「モスラ幕の内」だか「モスラ弁当」というのが撮影スタッフに配布されたという事実があって、それなら饅頭も有りじゃな、という単純な発想でのものじゃ~あったけど、今となっては懐かしい。モスラ幼虫はこの作品以外の登場では茶色なコロネって感じになりさがったけど、第1作めモスラのみは蚕(かいこ)がイメージされて典雅にして神々しく、これは白餡と餅でヒョ〜ゲンするっきゃ〜なかった。

 

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 吾妻ひでおの絵は、温度がいつも一定で、顧みりみるに、熱すぎず、醒めすぎずで、そこが良かったんだと気づかされる。ちょっと独特にぬくもるんだね。

 いま、うちの庭ではパッションフルーツに幾つも実がなって成長してるけど、意外やこの植物、南洋産のクセに、熱さを嫌う。植物の本にも30度を越えると高温障害をおこすとある。

 なるほど盛夏の頃、パッションフルーツは期待を裏切ってさほどに成長せずでグリーン・カーテンの役割をはたしてくれないのだけども、10月半ば頃からグイグイ育ってツルを伸ばし、葉を繁らせ、でもって気づくと幾つも丸っこい実をつけてるというアンバイ……。

 

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 そこいらに、なにやら吾妻ひでおの絵の熱量が思いかえされるような気がしないでもない。ちょいと外しつつも、おのが道・おのがスタイルをば維持するというワケだ。

 パッションフルーツの実は意外と大きいけど、重さはない。呆気にとらるほど軽い。

 けども果肉というかお汁は独特で他にない妙味。

 吾妻ひでおが自身で置いたポジションと似ていなくも、ない。