ちょいっと前、レンブランドが今をいきてたら電線のある風景を描いたかも……、というようなコトを書いたけど、な~んと、この前、練馬区立美術館にて、
という展覧会があったようなのだ。(2021年2月28日~4月18日)
それで、
「へ~っ」
と感心し、さっそく図録を取り寄せたのだった。
実に意外や、この国には電線を主題として描いた絵画がかなりあるのだった。
驚くべきなことに、かの岸田劉生も複数の電線絵画を描いてる。
劉生といえば“麗子”の絵がアット~的に有名だけど、大正12年(1922)の関東大震災までは、かなりの数量、電柱のある光景を描いてた。
画家は、電線にナニを見いだしたのか? ナニを感じたのか?
明治・大正頃の画家たちは、時代変化を見いだしたのだろうし、モダンを見いだしたのかもしれないし、昭和になってからのある画家はノスタルジーであったりもしたろうが、描くに価いすると見ていたコトは確かだろう。
岸田劉生もその中の1人として、電柱電線に何事かを見いだしていたのだろう。関東大震災で岸田宅は全壊し、以後、彼は電柱のある風景を描かなくなったようだけど、電柱や電線に「美」を見たか、あるいは逆に「醜」を見たか、あるいは「明るい未来」を見たか、絵にする必然あっての“存在”だったのは間違いない。だから大震災の災禍にあった岸田が電柱には幻滅し、2度と描かなくなったたというような解釈とてありえる。
図録のページをめくりつつ、やはり、レンブランドが今をいきてたら、電線なり電柱を描いたであろうと確信した。
たまさか、我が宅の眼の前には、実にまったく無粋な電信柱があり、この柱にアレやコレの架線がまとわりついて、端的にいえば暴力的だ。“的”ではなくバィオレンスそのものと大げさに云ってもいい。
毎日外に出るたび否応もなくそれが眼に入るんで、
「やだよ、まったく」
苦悶している次第なんだけど、その苦悶は、“絵に描く価値あり”でもあるわけだ。光景の中の異物、批判としての絵として……。
自宅前の電柱と電線たち
図録に文章を寄せている1969年生まれの画家・山口晃は、
「日本近代はその始めから電信柱と共にあるので、電柱を除くとしたらその他の要素全ての再検討が必要であり」
と云い、
「電線電柱の悪印象は圧縮写真などで記号的に印象付けられたプロパガンダであり、実風景を虚心に捉えている人は少数です」
とも云うが、ま~、それも1つの大きな見識だけど、ボクはそうは思わない。山口の文章からは現状を肯定するだけの足踏みしか感じられず、見解としてつまらない。くわえて、彼の云う圧縮写真なる意味がわからない。その部分のみを切り取ったという事なんだろうけど、そうであるならヤッカミに過ぎない。
我がことで云えば、認容に遠いカタチの電柱と線が庭の向こうにあるのは、愉快でない。虚心うんたらではなく、不快なんだから仕方ない。
むろん、だからこそ、その不快を絵にする価値もまた有りとも思ってる次第だけど、ま~、要は、電線と電柱は気になる“存在”という次第が濃厚なんだな。庭先に出るたび、
「なかったら、どんなに素敵かしら」
いつもアタマの中で電線とその柱を『消去』しているんで。
大谷写真館より転載 (津山線・宇甘川鉄橋)
一方で、たとえば津山線というような単線鉄路の車両に乗れば、車窓からは常に電線が平行して延び、それが窓の中で、上へいったり下におりたり、という飽きないビジュアルが続くのを好いたりも、する。
車両そのものはディーゼルながら、鉄路に沿ってモロモロな用途に使う電線が張られているわけで、これが車窓のアクセントになっている。
そういう光景に親しみを持っているということもまた事実なんだ、な。
ま~、いずれにせよ、この先、年数がかかるだろうけど、地表の電線と柱たちは、昨今の街中同様に田舎でも遠い将来には概ねでなくなるだろう。ホンダは2040年までにガソリン車から撤退して全て電気自動車にすると宣言したけど、そういうのも後押しになって電柱も埋設のそれに変化を促されるだろうと思う。わたし達の青や赤の静脈や動脈が皮膚で隠されるように。
牛島憲之 積わら 1961 府中市美術館蔵
となれば、電線絵画というものは、22世紀頃には消滅してしまう一時代のみの限定絵画というコトにはなるだろう。
なが~~いなが~い眼で見りゃ、電線もまた、はかない存在だぁ~ね。
その「期間限定」を絵に残すというのは良くも悪くもない自然なフルマイだろうし、明治期の街路灯や路面電車をモチーフにした版画が今やアートとして眼に映えているのも、当然だ。「美」は瞬間で沸くこともあるけど一方で、ジンワリ沁み沁みと湧いてくるというのも、また必然だな。
笠井鳳斎本郷三丁目同四丁目の図 1907(明治40)