5日前、ワクチン接種の予約を岡山県の予約サイトで行ったのだけど、判りにくいコトこの上なかった。
トップページが下写真の通り、ゴチャゴチャゴニョゴニョ文字の羅列。直感的に判るというカタチにはるかに遠い。
しかも、ログインすると直ぐに「旧パスワード」と「新パスワード」の記入を求められる。
さっき入力したばかりの生年月日パスワードのことを「旧パスワード」といきなり云われても、それが何を指しているのか、意味も説明もないから、
「へっ?」
となり、不明瞭のままに新たなパスワードを入れて、そこをクリアすると、また今度は、そのパスワードでの認容を求められる。
で、さらに予約ページでは、複数申し込み可能らしきなのだけど、数字は「1」しか入力できない。
「なんじゃ~これはっ」
悪態つきつつ、イジイジしつつ、なんとか操作を続け、今月21日に1回目の接種というコトが決まったけど、2回目予約の仕方が判らない……。
駄目サイトの典型といってよいのじゃなかろうか。
まずゼッタイ、70代、80代の方々にはハードルが高すぎ。65歳オーバーなピープルを対象としてるワケだけど、まったく最悪。
予約確認のメールがくるわけでなく、
「ホンマにこれで予約出来たの?」
いきどおりつつ、不安の焦燥にかられるんだった。
フォーマットは全国共通なのかな? 結局は新聞が報じた通り、コールセンターなんぞに直接に電話するヒトだらけで、それも繋がらないから、該当の病院に直かに出かけ、ドタバタな混乱を招いて、コロナ禍の上の災禍……。
知人のS夫妻は、わかりにくいネット予約をあきらめ、旦那が朝8時に近場のかかりつけのS医院に出向いたら早や20人もヒトが並び、S氏が1回目の予約を取って外に出たら50人くらいの長蛇になりにけり。
この9月1日より「デジタル庁」なる名前からしてドンクサイのが発足するけど、前途は明るくないっぽい。
〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇
さてさて。
すこぶる熱心に音楽を聴く……、という方ではないけれど、日常概ね、部屋では常に音楽が鳴っている。
それでも、ジョン・レノン、加藤和彦、デヴィッド・ボウイ、大滝詠一の訃報に直面したさいは、いずれも、その後数年、彼らの歌声を聴くことが出来なかった。
ショックが大きく、聴く耳をなくした。
ミュージシャンが亡くなった直後にはそのCDがかなり売れるようだけど、当方はそこが不可解……。
ま~、しかし、数年経てば、どっかの時点で蘇生気分が上昇、愛しみも増量で聴くようにはなるんだけど、なぜか大滝詠一のアルバムは久しく今に至るまで聴いてなかった。
彼が没したのは2013年末だから、8年ぶりに聴くことになる。
途端、炎があがった。「LONG VACATION」の5曲めだっけ、「我が心のピンボール」のイントロに身震いさえし、
「やっぱ、いいねぇ!」
気持ちが豊かに晴れて、アルバム「NIAGARA TRIANGLE」やら「NIAGARA TRIANGLE VOL.2」やらを久々、次々に聴いては、復旧のノロシに接している自分に気づきもするんだった。
何100回聴いたかしれない「ナイアガラ音頭」のコギミヨサに、
「やっぱ、これこれっ」
知らず身体ウキウキのせちゃって腰揺すらせ、ぇえいモドカシイわいスピーカーからヘッドフォンに切り替え、鼓膜ビリビリなサウンド注入。
近頃、日に1~2回は耳にしているのがJorja Chalmersのアルバム「HUMAN AGAIN」。
彼女の姿はずっと前から知っていた。
ブライアン・フェリーの公演時、サックスとキーボード、時にクラリネットをも担当し、ソロのシーンではフロントに立ち、かなりカッコ好い。ひどく派手というわけでなく、しかし、奇妙なほどに存在が際立つヒト。
1982年にシドニーに生まれて同地の音楽院で学んだそうだけど、英国に渡ってから頭角し、フェリーのバックについた。
そんな彼女が自身でプロデュースし、2019年後半になって出したアルバムがこれ。英語版ウィキペディアによれば、楽器はすべて彼女が演奏し多重録音したようだ。
Jorjaはジョルジャと書けばいいか? Chalmersはチャールマーズかチャーマーズか?
大滝詠一の一連の“ナイアガラ”が「明」なら、ジョルジャは「暗」かしら?
けども、デカダンなダークでなく、早朝の静かな湖の光景に接するような澄明さに充ちた「暗」で、それがなかなか好いアンバイ。
アンビエントというようなジャンルに入るのだろうけど、まっ、そこはどうでもいい。奇妙に居心地が好い「暗」で、潜り込むようであり、同時に浮き上がってくようでもあり……、なのだ。
なにより彼女の歌声が、一種の楽器のように楽曲に溶け込んでいるのがヨロシイ。
そんなわけで近頃よく、聴いている。
LPからCDにと買い換えた大滝詠一の「EACH TIME」や「Niagara Moon」とのローテーションで聴く。
よって「明暗コンビネーション」と勝手に称してる。どちらも耳が喜んでいる。
〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇
一部の部屋や階段廊下の壁のリフォーム作業をしつつ、その合間、休憩がてら、近頃、ペラペラめくっている本がこれ。
けっこう売れているそうだ。
そりゃそうだろう、今まで『鳥獣戯画』を扱った本はたくさんあったけど、ここまで至れりつくせりな解説本は、なかったよう思える。
で、この頃、眠る前に読んでるのが「御伽草紙」。
こたび読んだのは、その中の一篇『蛤之草紙』。
ずいぶんと前に一度読んでるけど、再読するに、誤読した部分が幾つかあって、
「おや? そうだっかぃ」
ちょっとベロ出しつつに読了。
この室町時代に書かれたらしき物語は、珍しくも舞台が日本でない。
印度だ。
しかし挿絵はしっかり日本だ……。
基本として仏教的説話ながら、釣り上げたハマグリから美女が現れるのがヨロシイなぁ。
しかし、はるか以前に読んださいは、
「ハマグリと美女……、サイズが合わんな」
腑に落ちなかったのだけど、こちらが腑抜けてた。ハマグリがでっかくなる部分、
舟の内へ投げ入れて、また釣を垂れければ、かの蛤、にはかに大きになりにけり
このわずかの説明を読めていなかった。すまんスマン。
主人公の漁師は老いた母親の介護をしつつ生活している中年独身なのだけど、美女は彼にくっついてきて、あれこれと彼に買い物をさせる。
機(ハタ)織りの材料を買わせるんだよ。
で、
この家は、はたばり狭く、織れまじく候ふ。そばに機屋を造りてたび給へ
ハタを織る部屋が必要といいだし、アトリエというか工房を作らせ、あげく、作業中を覗いちゃ~いかん、と男に命じる。
どこからともなく作業助手の女性まで連れてきた美女。
それら一切を容認した男とその老いた母。
やがてハタが織れ、男は町で売るよういわれ、市場に出てみる。
でも売れない。
ションボリしつつ帰りがけ、33人の家臣を連れた老人に声かけられ、持ってた織物を見せる。
近ごろ珍しき布かな。われ買わん
と老人はいい、彼を自宅に招く。
とんでもない御殿。そこで供されたお酒の絶品の味。
一種の女難劇に見せかけながら、実はそうでなく、ハマグリ美人も老人も神さんで、貧乏で親孝行でしかも女性に不審を抱かぬこの男に、やがて幸いがやって来るという物語。
「竹取物語」や「鶴の恩返し」に通底したエピソードの数々で編まれてるわけだけど、自分が実は神さんだということを男に告げて美女が家を出て天に昇って行く「かぐや姫」的ラストで、あんがい男があっさりと事態を受け入れてしまうところが、妙に不思議で、そこに変な余韻あり。
室町時代にこの物語を聞いたヒトは、そういう余韻よりも、
「やっぱ、善行が大事じゃねっ」
健全素直にその功徳を受け入れたに違いないような気がしないでもない。
主人公は老いた母親のために魚を捕ろうとして海に出ている。が、どういう次第か同じハマグリが3回も鉤にかかり、そのたびに、ハマグリを捨てるのだけど、そこは今とは違うなっ。
いまや高級食材のハマグリも、室町の時代にゃ、掃いて捨てる程度の貝だったというコトが、この記述でおぼろに判る。老いた母親の夕食として食べさせるに価いしないわけだ。
明治時代頃までは北海道のニシンが、大量に水揚げされる廉価な肥料材料(畑の土壌改善に使った)でしかなかったのに、今や生息数減少、高級なグルメ魚になったみたいに。
ぁあ、ところで今から食べようとしてるもの……。
1本丸ごと、挟んで食べようかと。
当然に、魚肉ソーセージの赤い包みを開いたとて、中から美女は出てこない。ましてマーガリンロールからも。
御伽は遠くなりにけり。
〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇-〇〇
この25・26日に開催予定だった古市福子さんの「朗読会」が中止になった。
コロナ禍ゆえ、わざわざ従来の会場をより広い天神山文化プラザに変え、たっぷりのソーシャルディスタンスを考慮しての2年ぶりのイベントだったのだけど、『まん延防止措置』で県の施設たる文化プラザも封鎖……。ガッチョ〜ン。
ざ・ん・ね・ん・しごく・すごく・がっくり