アメリカはいつも夢見ている ~イノセンス~

 

 連休が終わり日常が戻って来たのとほぼ同時に、コロナ感染の数量がアップしているとのニュースがチ~ラチラ。

 若いヒトの重症化は少ないようだけど、こちとら高齢グループに身を置かざるをえない立場ゆえ、いざ感染……、という場合はもはやアウトな確率が高っぽいんで、さぁさぁ、困ったもんだ。

 ウィズコロナとかいった新語とも俗語とも判別できないコトバでもって、コロナウイルスとの共生共存を模索だなんて云うけれど、

「フンっ!」

 けったくそ悪いや。

 

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 連休さなかの某日、ちょうどsunaちゃんが我が宅に遊びにやってきたさいアマゾンから届いた本。

 全ページに眼を通すワケでなく、一昨日、昨日と拾い読み。

 

             

 

 著者の見解に全面賛同でもなく、ところどころ懐疑な情も駆けたけど、他者に寛容でない我が国ニホンの精神構造のイビツさは了解できたような気がチラチララ。

 ま~、そのコトに触れる前に、この筆者がアラン・ビーンと親しくしていたのを本書で知って、少なからず羨望した。

 

 アポロ12号で月に行き、さらにスカイラブ計画でまた宇宙滞在し、50歳で画家に転じたアラン・ビーン

 我が最大のヒーローたる人物といってイイのだけど、晩年の彼と懇意にし、アランいきつけのイタリアンレストランでのミートボール好きの彼のプライベートな側面などを読んで知らされ、羨望気分が2メートルほど深まった。

 著者は、そのアラン・ビーンの生き方に共鳴共振し、そこから本書の主題へと進んでく。

 

 

 上は、アラン・ビーンの1992年作品「The-Fantasy-Conrad-Gordon-and-Bean」。

 月面に3人の飛行士はありえない事実だけど、それをアランはあえてファンタジーとタイトルして、12号で共に月にいったコンラッドと、月に降りられなかったゴードンの3人を月面に置いて描いてらっしゃる。

 この融和でなごやかな精神にたぶんに著者はアラン・ビーンに惹かれたのだろうと思う……。そこを基点に、ニンゲンの幸せ感って何よ? と彼女は本書でもって思考の経緯を綴る。

 

       自宅アトリエのアラン・ビーン彼については10年ホド前にも記事を書いている

 

 同書によれば2019年に国連がまとめた国別の幸福度ランキングでは、日本は58位だという。

 ずいぶん、低い。

「1人あたりの国内総生産

「社会的支援」

「出生時の平均健康寿命

 などの基礎的幸福度ファクターは、幸福度上位の国々と変わらないし、「出生時の平均健康寿命」にいたっては調査された156カ国のうちで2番めというチャンピオン状態なのだったけど……、「他者への寛大さ」という項目において、俄然にダッ・ウ~ン。

 156カ国のうち、ほぼ最低に位置しているらしいのだ。麻薬売買とそれに付随した殺人なんぞが日常茶飯事のコロンビアなんぞより、個々人の思いとしてニホンは幸せ感覚が少ないんだ。

 

 思えば、諸々、心当たりアリ。

 前を走っている車がノロイ煽り運転する心理。レジでモタモタしてるオバチャンに、「さっさとしろや」と非難する心理。チョイっと肩がぶつかっただけで先方にスゴミたくなる心理、などなど。

 実は微細なコトなのに、それを断固許せないと感じてしまうケッタイな苛立ち……。

 議論が出来ず、すぐに喧嘩ごしに硬直してしまうスガタ……。

 本書は、いみじくも、その寛大さを失っているがゆえの日本人のカタチを浮き彫りにし、そこに幸福度が薄い原因を見いだして、これはガッガ~ン、脳に響いた。

 

 著者は米国で米国人と結婚し、ダメな米国を、とりわけトランプ政権になってからの利己的個人主義の跳躍のひどさをしっかり味わいつつ、根っこの部分には“寛大さがまだ活きている”らしき米国の良さを了解し、自身も意識的にそうあるべきと実践されているようで、寛大であるには自身が努力して積んでいくものかも……、とそう、くっきり感想したりもさせられるのだった。

 幸福度の低さは、自分の廻りに原因するのじゃ~なくって、自身の内にあるんじゃなかろうかという視点が大事、なのだ……。

 

 ま~基本的に、本書は人生のハウツー読本というジャンルに置かれるものだろうけど、幾つか示唆され、読んで良かったワイと、表紙をナデナデし、寛大寛容、を改めて意識するのだった。

 

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 昨日、久々に押井守の『イノセンス』を観る。

 押井守は、他人のフンドシ(正しくはマワシだ)で相撲をとらせると名人に価するホドに旨味を発揮する希有な才あるヒトだけど、本作はそれがいささか度が過ぎて、鼻につく。

 リラダン尾崎紅葉、ニコライ・ゴーゴリ斎藤緑雨アシモフウェーバー、ロマン・ロラン、フレィザー、ミルトン、世阿弥孔子プラトン……、あげればきりがないホドの引用の連打。

 

 悪しくとれば、バトーら主人公達は自分自身のコトバをもたないガランドウ~。

 これは如何なもんか? その引用連打に辟易させられる。

 なのだけど再見したのは、麻薬的陶酔めいた味わいある音楽ゆえ、なのだろう。

 この映画を映画として立たせている最大の魅力は、たぶん、川井憲次の音楽なんだろう。

 雰囲気重視で押し進んでるだけのこの映画の空虚を、川井の音楽が隅々まで埋めていて、そこが本作再見の理由となるポイントかもと、眺めつつ再確認させられた。

 押井守には気の毒だけど、川井のそのサウンドの心地よさこそが『イノセンス』一番の光点なんだろうな、ボクには。

 映画そのものの評価は「押井のインテリっぽさが鼻についてペケ」なれど、CD買おうかしら……、と思ってしまえる川井の音楽の深みのみ、いい。要はカワイ音色で救われている映画なんだ、な。

 この評点については、当方、寛大にふるまえない。

 ペケはペケ、マルはマルなんだ。