初盆

 

 昨日の日曜、坊さん来たりて正座する。

 こたび、初盆。

 春の彼岸時には、弟の家族がコロナにやられ、来るに来られず、むろん、来てもらっても困るという次第で、坊さんの読経を耳にしながら、坊さんの真後ろにピタリ座って、坊さんのうなじに息をふきかけたら、坊さん、どんな反応を示すかしら?

 1対1での退屈な時間をうっちゃった次第ながら、この初盆は弟の家族複数が加わって、そこそこ賑やか。

 

 

 マイ・マザ~没して初めてのお盆ゆえ、

「ファミリー、概ねで揃ってますぜぇ」

 遺影を前に、慈恩精舎から届いた仕出し弁当を総出でひろげるんだった。

 

    

 

 慈恩精舎というのは精進料理の店で、法事用仕出しがピンからキリまであって、便利というか、20年ほど前、オヤジが没した頃より、利用しているワケだけど、ピンは高過ぎ、キリはやや頼りない。

 なので、そこそこ、真ん中あたりのお値段のヤツを発注し、

「ぁ、これはお吸い物も付いてるのね」

 春以前からまったく会えていなかった弟ファミリーとの会食を、それなりに愉しむんだった。

 

 初盆を愉しむ? 

 ま~、よろしいではないか。来夏は初盆じゃなくって、ただのボ~ンなんだ。

「来年は弁当、出ないよ」

 食い気旺盛な弟の子供らに、ニカッと笑ってネン押しといた。

 

 

 実のところ、宗教というカタチにはアレコレ興味をもつけど、信仰心は薄い。

 ならば坊さんに来てもらわなくてもイイのではないか、仏壇も仏間も要らないんじゃねいかしら……、とコッソリ思わないでもないのだけど、ま~、そのあたり、極めてアイマイ。

 慣習と慣例のままに、ズルズルひこずっている。

 もちろん、マザ~を偲ばないではない。その気持ちと初盆だからウンタラカンタラとが、うまく一致しないだけのこと。

 たぶん……、宗派、宗教というワクの中にマザ~を封じたくないんだろう。まっ、そういうイミでは信仰に逆説的に囚われている自分を意識しちゃったりもするけどねっ。

 

 

 この数日は夕立とも思えぬゲリラ的雷雨もあったりと、お天気具合はなはだ不安定。

 墓に詣でたさいは、日差し濃く、けれど湿度たっぷり。

 額や首筋に汗がつたう。

 

 

 同じ苑内にあるマ~ちゃんのお墓にも詣で、手をあわせる。

 既に花がある。娘さんが来たのかな。桃色の大輪の垂れ具合と墓所の温度を思うと、おそらく前日にいらっしゃったのじゃなかろうかと……、シャーロック・ホームズする。

 一応、お菓子を墓前にそなえたけど、持ち帰り。

 食品にめざといカラスが喰い散らかすので、この苑では禁止。食べ物を置いては帰れないのだった。

 

        生前のマ〜ちゃんがおはぎを好んでたかどうかは不明だけど〜……。

 

 どうでもイイことだろうけど、『生前』という言葉って、どうもアイマイというか、どっち向いてるんだか……、よく判らんねぇ。

 普通に解釈すれば、“生きてた前”、すなわち、生まれるより前か、あるいは、死んじゃってる状態をいうのじゃなかろうか? 

 でも、そうでない。ス〜ハ〜ス〜ハ〜と呼吸してるのが“生前”だ。

 一方で反対語である『没後』は、ストレート。解釈でアタマをひねることがない。

 なんで生きてる状態を、せいぜんやらしょうぜんというのかしら? いささか時空が歪んでる感があって、不思議。

 死というカタチを軸足にした単語なんだろうけど、仏教用語ではないそうな。

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 まだまだ暑いけど、しかし「暑さ寒さも彼岸まで」という通り、音をたてず季節はめぐってますなァ。

 朝4時には夜が明けはじめていたのが、気づくと、5時を過ぎてもまだホンノリ暗いというところまで後退している。

 夏が枯れはじめているワケだ。

 ヒトツキ後には、もう秋の彼岸。

 ぁ、そうか、9/15前後にゃ、また坊さん来るんだ。

 せわしィ〜なぁ。