百花繚乱 2019

 

 小庭の緑が濃くなり、鮮やかさに輪がかかり、花も満開。賑やかな饗宴にざわめいている。

 連休辺りで賑わいに速度がついた。むろん草花に連休はなかったし令和の慶事も関係なし。

 元号変更は実体として何かがリセットされたワケじゃないけど、季節の変わりは巨大でトータルなリセット。日差しと地温上昇を鋭敏に感じ取って植物たちは、ただもう我先にと背筋を伸ばすことに励んでる。

 

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 こういう活き活きを眺めると、ヒトのおろかしい行為の連打をチョイ忘れ、親和させられ、

「ガンバッて頂戴ねぇ」

 ちびっと眼を細める。

 やがて酷暑な季節になると、ジリジリ日差しに焼かれ、庭先に出るのもイヤな感じになるけれど、このシーズンはおだやかな気分でユッタリ漂う煙みたいに眺めていられる。有り難い。

 

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 豆はプリプリ肥え、イチゴは赤く色づいて、でも収穫前に小さな虫どもが齧ったり穴開けたりで、これはいささか哀しいけども色の鮮烈が好ましい。

 

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 ベニカナメモチの紅い葉が茶色く変色して盛大に落ち、緑の新葉に変わる時でもあるから、落ち穂拾いをしなくっちゃ~いけないのが面倒といえば面倒じゃあるけど、マイ・マザーをお風呂に入れたりの腰屈めの介護の面倒に比べりゃラク~なもんだ。

 ただ、庭池に張ったネットにからんだ葉は面倒なり。あんがい頑迷かつ頑強に抵抗するんで1枚1枚取り除くことになる……、だから概ねは放っておき、宙に浮いた風情をば無理して楽しみに変える。

 

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 界隈のランドマークの1つだったけど数年前の台風で倒壊して昇天してしまった棕櫚の、その根本部分は折れたままに放置しているが、今はそれにツタがからんで惨禍後の形骸を覆い隠し、ちょっとナウシカの世界を想ったりする。

 その傍らで2代目の棕櫚が葉を広げ、長期的展望でもって育ってやろうとの意思表示をチラリ見せている。頼もしい。

 

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 一画の繚乱。ポール・スミザー風のナチュラルを意図したものでなく、若干は間引いたものの、ここ数年に植えたのや、鳥の糞だかに混ざって着床した植物のアレコレが芽吹いて共存した結果が一種の調和をもたらしている。

 いや、正しくはやはり混乱なのじゃあろうけど、花々の色彩と形が混乱を突き抜けての調和したハーモニーを見せているという感じかしら……。名を掌握していない花もあって、お・も・し・ろ・い。

 

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 スミザーの云う通り、造りこまなくとも植物たちは勝手に育つ。もちろん、そこではある種の力関係もあり、根張りが早くて吸水力の高いヤツが成長もまた早いのじゃあろうけど、見た目の繚乱が眩い。

 蝶もやって来るんで平穏うららかなりという感じも醸され、これまた眼を細める。

 イタリアの小さな村にでも生まれ育ってりゃ、そこのユッタリ時間をうまく身体と心に沁ませた感性でもって庭先に椅子とテーブルを引き出して、午後の日差しと花々をワイン呑みつつ愉しむというコトになるのかもしれないけど、いかんせん、せわしない国に生まれ育った感性とすぐそばの道路からの人の視線も気になるし、いまだワイン瓶を持ち出したことはない。

 いや、飲みたいとは常々に想っちゃ~いるのだけど、そうするとどこかスノッブなエセっぽい匂いがたつ人物に見られるような気もして、実現にいたらない。

 いっそ生垣をより高くし、より繁茂させて道路からの視線を遮ってしまえば、とも思わないでもないけど、さてそうすると今度はどこかぁ~偏屈狭量な花いじりジジイになるようでもあり、

鎖国するワケでね~しなぁ」

 やはり実現にいたらない。

 庭をいじるというのは、自意識もまたいじられるというワケでござんショー。

 それに、ここはイタリアの小さな村じゃない。真似たって意味はない。JAPAN、OKAYAMA、という固有拡張子がついた地域での、のどかなイットキを味わうっきゃ~ない。

 

 

まごのて

 最近100円ショップで「孫の手」を買ってエラク重宝してるのだけど、「孫の手」を発明したヒトは、「世界の偉人100人」に選んであげても良かアンベ~なのじゃあるまいか。

 それっくらい威力絶大、かゆい所に手が届く逸品だ。ま~、文字通りにそう機能するのだからあらためて書くほどでないけど、そう云いつつ、片手に持って背中ポリポリ掻いてるのだ。

 滑らかな曲げ加工部分をTシャツの首の所から背に差し入れ、かろやかに上下運動させると背中大喜び。

ああぁ

 小さな呻きがプチプチ炸裂しもするのだった。

 もちろん四六時中背中が痒いワケはないけども、痒い時はダンコ痒いのだから、そのさいの「孫の手」は今どきの言葉で云うところの「神対応」のマジックリンなのだった。

 手は小さく、動きは上下運動にほぼ限定されて単調、横方向は苦手ながら、痒みの抑制と緩和に対する上下移動の指先の繊細は無類。

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 しかし、発明者は何故にマゴノテという名を与えたのか?

 「弟の手」でも「愛人の手」でも「ワイフ・ハンド」でも「夫の手」でもイイはずなんだが、「子」でなく「孫」と規定した所に作者の実事情がからんでるような気がしないでもない。

 アマゾンを一覧すると、おびただしい各種「孫の手」が売られているから驚く。国民の多数はよほど背中が痒いのだろう。ずいぶん豪華なのもあるし、SM系の小道具を連想しちゃうようなのもある。歯ブラシのような電動なものがないのも、お・も・し・ろ・い。

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 ブリタニカ百科事典には名の由来として、中国の伝説『神仙伝』に登場する麻姑 (まこ) という鳥のように爪の長い道教の仙女の名から転じたといわれる、と記してる。

 ある男が「その爪で背中を掻いてもらったら気持ちいいだろう」とこっそり思ったら、すぐに見抜かれ、罰が当たって何者か眼には見えないものにブッ叩かれる。ま~、それで麻姑が「マゴの手」となったというらしいが……、いささかコジツケたような感じが無きにしもあらず。

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      棒を持ってるがマゴノテじゃありません。仙界を行く舟の櫓(ろ)です。

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    この仙女さんは実は酒造りの名人で、舟の足元には酒の瓶があるんだ、呑んでみたいね。

 

 で、所変わって日本。下は『紫式部日記絵巻』の一部。

 皇子誕生を祝う祝賀パーティの後、右大臣の藤原顕光が酔って若い女官に言い寄り、扇で彼女を引き寄せようとしているというのがこの絵の解釈らしきだけども、見ようによっては、扇で彼女の背中を掻いてやってるよう見えなくもない。

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                   五島美術館


 そう思うと、女官の表情は言い寄られての恥じらいともいわれてるけど、十二単の上からとはいえ、掻かれて、うっとり顔に見えなくもない。

 眼を陶酔に細めきり、お多福ぎみの頬に朱がさしている処を見るに、恥じらいよりは悦楽の表情とボクには見えてしかたない。

 そも、背後から扇で彼女を引き寄せるというのはヤヤ無理っぽいのじゃなかろうか。

 背中ポリポリかきくけこで、要は、藤原顕光はこの女官を陥落させるのに成功したというわけだ……と、そのように解釈したって誰も困らないでしょうの『紫式部日記絵巻』。

 脇役でしかない人物絵ながら、事後の顛末というか、次に二人はどうなるの、進行形のドラマの暗示がふりかけてあるようで妙にひかれるのだった。

 扇で彼女を引き寄せ誘ってるのか、あるいは扇で背中を掻いてやって親しみの急接近なのか、どのみち深い男女関係に進むでしょうねぇ、の予測はつくにしても、絵としておもしろいコトに変わりない。

  余計ごとながら、十二単という装束は自分で自分の背中はまず搔けないだろなぁ、などとつまらないコトも想像出来ますし。

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 ちなみに藤原顕光(ふじわらのよりみつ)平安時代最大の無能な大臣と当時から云われ、従弟の藤原道長は「至愚之又至愚也」とまで書いてます。愚の骨頂だアイツはというコトですな。ま~、そんな人物ですから政治より性事な事情を紫式部はしっかり観察していたんでしょうヨ。

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 けどまた一方で日記で式部は、その無能な大臣に声をかけられチョット言い寄られたのを密かに自慢してるフシがあって、このあたり、おんな心、色は匂えど散りぬるを……、ですなぁ。

 

 装束といえば……2日になくなったピーター・メイヒューを想う。1977年の第1作からずっと彼はチューバッカの毛むくじゃらとして存在し、その毛むくじゃらが装束だったねぇ。思えばおかしな役回り、第1作のチャーミングな程にノーテンキなメダル授与式のシーンですら毛むくじゃらのままで何も履かず何も羽織ってないんだから、オモチロかった。

 メイヒューの名は判らずともチューバッカの名でその姿は鮮明であり続けた。

 幸いかな映画で繰り返し彼には会える。

 冥福を祈りつつも、May the Force be with you.

 

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令和の初日

 一昨日、祭日の柳川交差点界隈。

たま大明神」が設置されたテラス真下空間での初めてのイベント。我が眼で見る平成ファイナルのライブシーン。

 

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 ステージのトリとして登場の、我が良き友の歌声が清々しい。

 馴染んだ声に淡くなりつつも、けども雨の粒。おまけにズイブン肌寒い。

 この4月は、ボクが出向くイベントことごとく、前日も晴れ翌日も晴れるクセに……、当日オンリ~雨ダスた。

 

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 ライブ後、傘さして喫茶ダンケに移動。Kちゃん・Eっちゃん ☆ かしましシスターズと遭遇。ダンケ周辺でシスターズとなんだかよく遭遇するのは、天の采配? 御縁というものか。

 Kちゃんよりチョイと嬉しいギフトをもらう。

 

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 今日、令和の初日。

 平成天皇には、「おつかれさまでした」と申し上げ、ゆっくりとお過ごしあれと願うばかり。

 まだ若かりし頃、昭和天皇の代理として初めて沖縄に出向いたさい、眼前で火炎瓶を投げつけられもし1975年の糸満市ひめゆりの塔にて。投げようとした本人が転んでしまいオ~ゴトにならなかったけど、非常に危険な状況だった)、慰霊式典だったか何かの席にて汗にまみれ、スーツのYシャツをぐっしょり濡らされて緊張されている姿などが記録映像に残っているけど、おそらくその頃よりご自身の立ち位置を強く意識されたであろうと思う。

 そういうコトのイチイチを直かに発言出来ないという不自由さの中での今日までのお努めに、ただ感謝と慰労を申し上げたい。

 天皇交代を政治利用している政権の無暗な厚顔っぷりと比べても詮ないけど、そこの無念も押し殺さねばならない立場に強く御同情申し上げたい。令和の政治的運転っぷりの危なっかしさを一番に不安視されてらっしゃるのは平成天皇その人だろう、とも思える。

 改元は大きな出来事じゃあるけど、かといって騒ぎすぎ。

 思考停止な躁状態でただ令和の2字を追ったり、いきなり平成を回顧して社会の景観が変わったという風な気分は、ヨロシクない。

 社長交代で社名も変わりましたということで浮かれたりしないのと同様、静粛に受けとめ、皇室は自分にとって何だろうと真面目に思い返した方がいい。新旧の天皇もそうお思いじゃなかろうか? 

 

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 先日、とある会合の後の二次会にて、「タケノコの醤油バターいため」を食べる。

 これは初めて。

 湯がきしたものをお味噌とかで食べるというパターンに親しんできたけど、湯でアク抜きした後にやや厚切りにしてバターでいためるというのは未経験。見た目もタケノコを感じず、口にいれて初めて、アッ! なのだった。

 淡麗ではあるけど味幅がなかったタケノコめが、ふいに妖艶な別嬪さんに変じたようで、

「そっか~、この手があったか」

 風味の濃厚に、とても感心、かつ歓心したのだった。

 さらにワサビなりカラシをくわえたら、きっといっそう美味くなるに違いない。創意と工夫をこらせばタケノコ味覚も拡大するのだと、いささか嬉しくもあったし、タケノコ調理を規定化してしまってたと反省もチラリ。

 クックパッドなんぞで、調理法を知ることは出来るけど、日常そういうのは見ないし、考えてもいなかったから、良い意味で不意打ちをくらったようなアンバイ。タケノコを単独でフライパンに入れるという発想もボクにはなかったし。これは平成最後の2重マル。ミシュランっぽく書けば星5つ、☆☆☆☆☆

 

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              若鶏だかのお料理かと思ってしまった


 さてと、ありそうでないのが「重箱」の専門書。

 重箱というのはお祝いやら行楽弁当やらおせち料理容器としての、あの重ねた箱だけど、これに特化した本が、ない。食べ物の本の中に登場はしても、そのヒストリー詳細を記す本がない。

 ちょっとしたワケありで重箱のことを知りたくて、それで江戸時代や明治の頃の食べ物事情やら「しきたり」を書いた本を何冊か物色、探ってる。

 こういう探索は面白いけれど、ハズレ確率も大きく徒労多しで、な・ん・ぎ。

 文字通りに、重箱のスミをさぐる——、という次第が可笑しくもあるけど、知って、とある考察にそれを用立てるというコトにならないのが、な・ん・ぎ。

 といって、資料が出てこないままに想像ふくらませ過ぎで結論を導いちゃ、いわゆる捏造が生じてきもするから要注意。

 面倒だけど、コツコツ探すしかないな、こういうのは。

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 ちなみに重箱というのは、4段重ねがイチバンに上等らしい。ただ(四)の字が(死)と同音だから、それを「与の重」と言い換える。この辺りがいかにも言霊の国の心の佇まい。

 赤飯が入り鯛が入るのも縁起ゆえにの、心の佇まい。

 言霊も縁起もほとんど信仰レベルというか、無自覚な信仰そのものとして定着してるのは面白い。

 その傾向はたぶんさらに深化するだろう。ITだのAIだのの進捗と裏腹に、知足のバランス取りみたいに、いっそ迷信的迷妄の領域は拡大するだろう、とボクは予測してるけど、小さな箱にいっさいを収めて隔絶させる点はガラパゴスな島内そのものに見えるし、けどもそこに味が凝集され結露しているという点での豪奢の底深さという醍醐味もまた面白く、重箱には日本というカタチそのものが凝縮しているような気がしないでもない。

 いっそ、すこぶる良性な感性の熱量を感じるくらいに、重箱って、大事なポイントをついた存在じゃ~なかろうかと思ったりしている……、令和の初日。

 

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  根来塗呉須絵多角重箱(2段) ねごろぬり ごすえ たかくじゅうばこ、と読む。八角形だ。

神勝寺にいく

 

 雨天となった日、福山の神勝寺に出向く。

 1年ほど前、講演で御一緒いただいたN女子大の上田教授より、

「日本の建築家を1人あげるなら、藤森照信でしょう」

 魅力を聞かされた。

 その藤森作品の寺務所が神勝寺にあるのだった。それで気にはなっていたのだけど、たまさか、Yちゃんが神勝寺に行きたいと申うされたのが冬のさかり。

 行きたいベクトルがっちり合致。

 あったかくなった今がチャンス。天皇交代に託(かこ)つけた、やや意味不明な大型連休……。その人の波にのまれる前に行っちゃえという次第。

 しかし、チョイスした日に雨が降る……岡山神社音楽祭の雨天中止以来の雨、何でこのタイミングで降るのかしら、く・ち・お・し・や。

 

 広島県福山市へなら、いつもなら車でゴ~だけど、あえてこたびは新幹線。

 あっという間だから旅情に遠い。

 福山在住のオッ友達に松永駅まで迎えに来てもらい、車を出してもらいと、いわば送迎付きのラクチン・ツアー。

 福山駅まで迎えに来てもらってもよかったけど、なんだか電車旅情をも少し味わいたく、それで福山で乗り換え、2駅西の松永駅で下車。

 オッ友達がこの駅近くに住まってるというのも理由だけども、ともあれ雨の松永駅、そこから松永湾の巨大な貯木場をちょいと見学後、神勝寺へ。

 

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 このお寺は栄西臨済宗建仁寺派の禅寺というのが基本。だけど広い境内はワンダーランドっぽい。

 開山は1965年(昭和40)。ずいぶんに新しい。

 その新参がゆえ、供養主体の寺よりもヒトの集える場としての寺のカタチを考えて、努めて間口を広くにしたのだろう。古刹風味と現代アートを並列にし、寺空間をNOW先端に昇華すべく努めてらっしゃる、という意味でのワンダーランドだ。

 だからこの場合、テラクウカンじゃなくジクウカンと、ヤヤ気持ちを膨らませぎみにハツオンするが好かろう。

 一見、一望しただけで、相当な経費がかかってるんだろうと了解できる。

 その支出と収入の行方も気になるけど、そこは問うまい。造船関連の地元企業がスポンサー的な母体ともきくけど、自力でもって維持しているらしき風情の天晴こそが、ここは肝。

 

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 川池のある広大な庭。いやはや……、「広」と「大」の2字がピッタリの空間展開。

 庭。滝。点在の家屋。複数の見事な茶室。

 いささかアッケにとられ、

「あらま~」

「ほほ~」

「へぇ~」

 傘さしたまま、感嘆符のみが口からこぼれる。

 日本の茶の湯のスタート地点を整地して茶の専門書『喫茶養生記』を書いた栄西臨済宗だから、茶室があるのは、ま~、こじつけ的じゃ~あるけれど、悪くない。

 ここは歴史的ストーリーを味わう場所ではなく、日本のテーストを味わう場と思えばいい。それゆえのワンダーランドと思えばいい。

 

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             茶室「一来亭」。利休の一畳台目の想像復元家屋。

 

 ピカピカお天気での見学よりも、雨中の日本家屋の佇まいの方が、「イイじゃ~ん」、こじつけて自分を納得させもしつつ、広い空間に身を置くと、明治の廃仏毀釈を思わずにはいられない。

 それまで多くのお寺さんは広大な地所を持って、良くも悪くも権勢をもって光輪を輝かせてた。けど神道国家の道を明治政府が決めてお寺さん大打撃。土地を奪われ境内を狭められたばかりか暴徒によって仏像を壊されもした。

 だから、神勝寺の境内を歩いてるとその圧倒的広がりに、明治以前の寺の景観を思わずにいられなかった。郷愁としての明治以前をすこ~し味わった気分がわいた。

 

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                     寺務所「松堂」

 藤森照信が創った寺務所をはじめて直に眼にする。

 写真で見たよりはるかに、インパクトが高い。

 絶対的に新しくはない。新しくはないけど斬新だ。いささか矛盾する言い方だけど、佇まいの落ち着きに常に新鮮な風があたってる……、という感触があって、その感触がいつまでも消えそうでないという処から斬新という一語が明滅し続ける。

 

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 藤森照信作品は、屋根の上に木を植えて、住まいと自然を一体化させるのを特徴とするけど、この神勝寺でもそれが味わえる。

 植生したことで、いわば家が呼吸をしているんだ。

 銅葺き屋根に赤松を植えてるのは、神勝寺界隈に赤松林が多々あるかららしい。地域の自然形態を住まいに取り入れたというコトらしい。

 樹木は育つものだから当然に赤松の根も太く長くなっていくはず……。そこを思うと30年、50年先のこの寺務所がどのように木に覆いつくされるか、あるいは、そうはならずか……、興味深い。

 

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  アンコールワットの石の家屋はガジュマルの木が強靭にからんで蚕食にかかって浸透し、放置すれば200年先には人造は自然に駆逐されるであろう様相を見せているけど、その実証実験の先端を藤森作品には見るようで、お・も・し・ろ・い。

 ただこの神勝寺の家屋では屋根と樹木を明快に分けての造りのようで、必ずしも一体化してるという次第ではないようだ。

 けど……、家屋もまた自然に呑まれゆくものとの想定でこれが創られたとは思いたい。

 そうであるなら、ボクがいささか好感ぎみの宇宙的な醒めた眼差し、ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』的なものじゃない嗚呼無情な境地を体現の寺務所というコトになるだろう。家屋の風化という現象は衰退を意味するだけじゃ~ないとも、考えたいワケなのだ。

 

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※ ガジュマルは沖縄地方での名で、”カラマル”という意味合いらしい。さすがに赤松ではアンコールワットほどのコトにはならいけど根は浸透してくるはず。上写真は判りにくいでしょうが、寺務所屋根のテッペンに赤松があり、メンテナンス用の階段がしつらえられている。

 

 神勝寺はとにかく面積広大。岡山後楽園よりはるかに広い。高低差もバツグン。

 入口そばの寺務所・松堂で、

「境内最奥の荘厳堂まで徒歩15分です~」

 と聴いて、ヤヤあきれた。

 その境内広庭に飛び石みたいに、川あり伽藍あり茶室ありミュージアムな家屋あり、さらに湯殿ありと……、全体を見て歩くだけで時間が過ぎてく。

 

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                荘厳堂の庭

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 食事もとれる。 

 ちょうど昼時だ。

 坂道途中にある五観堂という処で、水車を眺めつつ、神勝寺うどん、というのを食べる。

 3枚組の器「持鉢」と雲水箸が、ここが寺だと否応もなく意識させ、ある種の気分を造ってもくれる。きっとこの場合、お味がヨロシイとかマズッっとかではなく、御食事を頂けることへの感謝気分を昂ぶらせなきゃ~いけないのだろう。

 薬味のみでお揚げも天麩羅もついてない1000円を超えるうどんを啜った経験はほとんどないけど、気分は禅だ、禅行だ、ありがたく頂戴をする。

 

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 修行僧は食の作法では音をたてずが要めらしいけど、四十九日の日はうどんを食べておかわり自由の上に、啜って音をたてさせるのが肝心とのこと。

 そこの由来と加減がよく判らないけど、ま~イイや。

 それなりにズババッ……、音をたてさせる。

 

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       雲水箸がうまく使えず、つい中腰になって1本つかんでる我が良き友。

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       ご飯も出る。うどんツユでチャチャッと流し込みつつ、お椀を綺麗にしていく。

 修行僧の食の光景でお馴染みのタクワンでもって、椀を拭くようにし、残さず平らげる……、そのタクワンを自分土産に買った。

 賞味期限の記述がジツにNOW、

「ぁ、こう来るか」

 ってな感じ。

 

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 飽和したお腹を抱え、さらに境内を歩く。

 今年初めに出向いた曹源寺の凛とした深閑を思い出す。

 同じ臨済宗の禅寺。

 けども、かたや境内の立ち入りは可能なれど閉じて観光化を拒むカタチ、かたや開きに開いてアートを加え風呂も食事も提供で観光化の最前線というカタチ。

 この相違もおもしろい。

 どちらが正統とか正解とか、どちらが良いというものでもなく、両者はコインの表裏であって、しかもどっちが表でどっちが裏とかいうのでもない。つかの間の探訪者は、ただもう見せられるカタチの中で浮遊すれば、いいだけのこと。

 

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 アートパヴィリオン「洸庭」。見事なしつらえ。

 宗教のための家屋じゃない。家屋そのものがアートであり、そこで展開するアレコレもまたアートでござい……、の施設。三内丸山遺跡の、あの大きな集会所(?)を彷彿させられもしたが、近場まで足を運ぶと、これが通常な家屋でないコトが即座に判る。

 

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 ここでアーチスト・名和晃平の作品を見る。というか体験をする。

 2重トビラの厳重な灯火管制。客席数1階部分2階部分あわせて僅か24席ほど。

 ミニ懐中電灯を渡され、案内されるままに館内に入り着座。

 完全な闇の溶出。

 やがておぼろな音とおぼろな光が登場し、眼前いっぱいに水面があるのが判ってくる。床上式のこの建物の中は水で満たされているワケだ。

 その水面に光が反映し、あわく踊り、ゆるやかに溶け、カタチのない形としての、水と闇と光が織りなす瞑想的時間に誘われる。

 これは例えば、ピンクフロイドの『エコーズ』あたりを聴く感覚に近いとも思うけど、歌詞があるワケはなく、カタチは最初から最後までその輪郭を顕わにせずで、固定イメージは与えられない。イメージを紡ぐのは観客の個々であって、だから一緒に眺めていても、たぶん、個々は違う情感を萌させたに違いない。

 なかなか面白い体験だった。

 

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              案内してくれた方

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                 筋肉痛になる前のワタシ

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荘厳堂のなが〜い階段。晴れていたら緑の向こうに四国が見えるというが、この階段で筋肉痛うまれる。

 

 夕刻。車で送られ、福山駅に。

 で、さよなら福山かといえばそうでない。

 駅前の「自由軒」にゴ~。

 

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 かつて出向いたさいはお休みで残念だったけど、こたびやっと入店。

 禁酒のお寺さんのカタキをとると云わんばかりにビールをグッパ~。

 3年ほど前、ジャズフェスの良きお仲間たちがここを訪ねたさいには、たまたま『孤独のグルメ』の原作者が取材中で、楽しげな記念写真をもらってチビっと悔しかったりもした。

 

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           久住さんとK.O君のツーショット

 

 そのカタキもとるぞと、淡白なもの、脂っぽいもの、炙ったもの、煮たもの、焼いたもの、アレにコレにと注文しては平らげる。

 お値段リーズナブル~な青色明朗会計もありがたい。

 寺の静かさと、この楽しい喧騒めいた繁華な「自由軒」との対比が、この日一番の収穫。

 

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庭池にネットをはる

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 前回に書いた通り、鳥害が疑わしい。

 100円ショップの「鳥よけ」。植物用だけど2m2m、サイズが都合よい。

 

 するとだね~、なんだか鳥そのものが庭にやって来なくなった……。

 ゼロじゃないけど、数種が20数回来てたのが半分以下というアンバイになっちまった。

 ユスラウメの枝にとまったりはしても、池の方に寄ってかない。

 ちゃんと察してるというか、ちゃんと見てるワケだね。

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 鳥にとっては庭の樹木と庭池の、そのセットが都合よかったのだろう。池の水を利用できないと知るや、庭のグリーンも諦めたという次第なのだろう。

 グリーンのみならお隣さんにもあるし、向かいのオウチにもある。

 アレコレ飛来の内はソレもコレもとついばむから鬱陶しいと思ったけど、鳥が来ないというのも何やら寂しくもあり、なかなか、むずかしい。

 鳥は鳥で、ネットを見て、阻害されたと憮然とし、ちょっと憤った後に諦めの溜息をつきつつ、やはり寂しい情感をそのちいさな脳に浮かせたかもしれない。

 なかなか、うまく共存できない。

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 近場の電柱にしょっちゅう留まって辺りを鳥瞰しているカラスめは、決して庭にやって来ない。ある種の孤高を装ってるのか? いや、そんなことはない、首は町内のゴミ収集所に向いちゃってる。

 昭和9年の新聞に寺田寅彦が載せた文(『とんびと油揚』)によると、カラスの類いは見ているのではなく嗅覚あるいはそれに類する器官でもって腐肉の位置を探ってるらしいから……、我が庭に腐肉なし、そりゃ降りてこないはずだ。

 逆にいえば、カラスやトンビが降りてペタペタ歩いてたりしてたら、そこにはカラス好みな腐臭ある何かがあるというコトですな。清掃怠るべからず。

 むろんハゲワシなんか来ないし(日本にいないんで)、ハゲタカにおいては、そんな鳥は存在しなくって、誤りが是正されぬままにただ慣用句的俗称として今は用いてるだけのモノだから飛来の心配などもってのほか。

 ちょっとヤッカイなのがシラサギだけど、ここ数年はウチの庭には来攻しない。

 

 ともあれ鳥が来ないとなると、金魚たちは安堵してか浮上し、浅いところで滞留し、背びれ辺りに午後のぬくもりを浴びてノンビリしてらっしゃる。 

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 3年前には、庭池のそばの金木犀に鳩が巣を造ってヒナも孵り、こりゃ楽しみだなぁと北叟笑んだことがあったけど、ある日、巣が無人(無鳩か)になった。

 たぶん、ノラネコめが襲撃し、ヒナを咥えていったのだろう。他にちょっと考えられない。

 どって~コトもない小さな庭池じゃあるけど、それはそれ、水辺周辺、いろいろドラマがあるんにゎ。 

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            2016年10月撮影 巣で卵を温める鳩

 

赤の光景 ノートルダム寺院

 このシーズンになるとアチコチの庭先やら道路の境やら、生垣の紅色が眼にあざやか。

 うちの生垣も数年前から、このベニカナメモチがおごる。レッドロビンという名でも呼ばれてる。

 廉価だし、強くてよく育つし、なにより新芽が出るこの季節となれば紅色というか赤色が濃く発色して眩く、冬が去って春来たりの変化をたのしめる。

 日本にも昔から自生していたカナメモチと、東南アジアや中国にあったオオカナメモチをかけあわせた、いわゆる園芸品種だから、明治や大正の時代にはなかった樹木といっていいでしょう。

 したがって、お江戸時代や明治時代を描いた映画なんぞで、これを登場人物の背景の生垣に用いてるようなシーンがあったら、

「ありえね~」 

 と、呟けばいい。

 

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 全体が紅く染まってこれから緑色に変化するうちの生垣のそばに庭池があるワケだけど、先日の朝に目撃するに、ツグミムクドリか判別しにくいけれど、1羽が水浴びし、バシャバシャやってるのだった。

 池中央に金魚たちの待避所っぽい空間を設けてるのだけど、そのコンクリート製のフラットな部分に着地し、そこでパシャパシャなのだった。

 温泉でもなく、足湯を愉しめる場所でもないけど、鳥には都合のよい水の中の孤島には違いない。

 しかしこれは……、金魚にはヨロシクない。

 バシャバシャに脅かされ、萎縮して、水温がゆるんで遊泳出来る時間が来ても待避所から出にくい……、であろう。

 

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 さて困ったね。

 野生の鳥たちとて、比較的綺麗っぽい水で身体を洗いたいだろうし、近場にこのような環境はないし、無下(むげ)にオッぱらうのもナンだし、さりとて金魚どもの生態を思うと、それはそれで迷惑でもあろうし……、悩ましい。

 ま~、しかたない。

 園芸用のネットだかを買ってきて、ひとまずは鳥の足場を阻害することにしよう。

「この池はおよしなさい」 

 レッド・アラートの意思表示。

 しかし、たぶん、それは見てくれが悪いね。なんか、いかにもオサカナ飼ってます~っぽくて。

 

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                  AFPBBスクリーンショット

 と、それにしても……、ノートルダム寺院の火事は、痛いニュースだな。

 本来、あるべきでない色彩と熱に包まれたその姿には戦慄させられた。

 ましてあの塔が崩落しようとは……。

 遠い昔日に、ここのスーヴェニア・ショップで買ったお守りは、今も我が部屋にある。 

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 買った直後の裏路地でジプシー(ロマ。フランス国内では2万人くらいが居住中)の子らに取り囲まれ、思わずカンフー・ポーズをとったら、子らが一斉に怯えた眼をはったのが昨日の事のように思い出される。かわいそうなコトをした。

 すぐそばの本通りには観光客が群れて華やいでるけど、ほんの一歩入った裏路地には別空気の別生活が共存してるのだと知った、その驚きがこたびの火災で蘇る。

 哀しいかな、寺院の炎色と我が宅のベニカナメモチの赤とが妙に重なってしまった。

 

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 多くのパリ市民は「歴史が消失した」と慟哭したけど、たぶんそうじゃない。

 消えたのではなく、悲しい色で、歴史がまた更新されたんだ。

 涙をふきふき背を丸め、愛おしさを込めて焼け跡から、過去と未来を拾い繋ぐしか、ない。

 復興を願うばかり。

書棚うごかす

 岡山神社の音楽祭。

 今回は複数のオッ友達がステージにあがるので楽しみにしていたのだけども、しか~し、あいにくの雨模様。

 屋外イベントを主催するヒトにとってお天気具合ほどヤッカイなものはありません。一喜一憂、決行か中止かの判断大いに同情致す処。

 中止を決めた時のガックリ感というのは、けっこうきついもんです。

 

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 書棚の1つがジワワジワジワと移動してるのに気づいたのは数年前。壁と接した部分に隙間が出来、それが次第に目立つようになっていた。

 設置してもう10年を越えるけど、コンクリートの床から天井までの高さがあって、いっぱいに本やらナニやらが詰まってる。そういうヘビーなものが動くというのは、奇っ怪だ。

 奇っ怪だけど動いたのは事実なんだから、しかたない。

 コンクリートの下は地面だから、10年ほどの合間の幾つもの地震なんぞが、地面を揺さぶるたびに書棚を動かしたと……、思うしかない。

 私にとって書棚は激烈に重いけど、地震エネルギーにとっては塵みたいに軽~いものなんだろさ。

 ドイツやスイスやフランスやら、ほぼ地震のない国に生まれ育った方々にゃ、この地震エネルギーの強靭はたぶん理解できまい。(自慢することではありませんが)

 

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 直すには、本を全部取り出して書棚を元の位置に戻すだけのコトだ。

 けど、それは超絶に面倒だ。

 なので放置し続け、蛮勇が湧き出てくるのを待ってた。

 で、音楽祭が中止で時間が出来てる。

 出演予定だったミュージシャンから、イベントなくなったけど打ち上げ的に飲みましょうか? とのお誘いあったけど、後ろ髪ひかれつつも、あえて不参加表明。

 この機会ソマツにすべきでない……。

 作業にとっかかった。

 

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 嗚呼、しかし予想以上。面倒は鬱陶しさに2乗し、さらに3.14を掛け合わせるみたいにヤッカイだった。

 脚立に登って本を束ね持って下り、また登って、また下りる。

 束ねると本は重い。

 行きは良いが帰りは重い。足場に注意しつつ恐る恐るで神経使う。

 その繰り返しにウンザリしてると、降ろした本が今度は足元で邪魔をする。山が崩れて散乱する。

 

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 束ね抱えて降りるのを10数回繰り返してる内、腰と腕がズンワリな違和感を申し立る。

 棚に積もった埃が鬱陶しい。

 雑巾がけする。雑巾を洗い、絞ってまたフキフキ。

 休憩繰り返しつつ、気づくと数時間が経つ。

 積載物がなくなったとはいえ、書棚は書棚で重い。

 それを全体重かけて元の位置に戻す。

 

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 で、そこからは復路。折返し。

 元に戻さにゃイカン。

 今度は行きが重い。

 わずか数センチを移動させるがためにの苦労。なんと不毛な作業か……。

 しかし、その数センチが気になってイケナイのだから、この作業を不毛と思ってもイケナイ。

 しか〜し、今度は本が元通りに戻らない。床に仮置きした本を鷲掴んでは戻してったら、一体どうやって詰まってたのかしら? 数10冊が書棚に入り切らない。

 ウンザリ気分が擡げ、

「めんどくせ~~」 

 作業中なんども呟いたのをさらに大きく復唱し、また中断し、パカ~ッとビール開栓、グパ~ッと呑む。 

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 ほぼ1日かけ、とにかく復旧。

 岡山神社音楽祭の雨天中止は残念ながら、中止なくば、この作業もヤッてないワケゆえ、『何かを失えば、何かを得る』というエネルギーの交換法則を思わないでもない。

 ピンクフロイドの『ウォール』をスピーカーから流し、筋肉痛を予想しつつ、またビールをばグバ~ッ。

 棚が壁のようだから『ウォール』をかけたワケでもないけど、これはま~、悪くはなかっタナ。