先日の朝日新聞web版に下写真のようなタイトルの記事があって、ウムムッ、つまらなかった。
あくまでもライアン・ゴズリングの発言というインタビュー記述になってるけど、その部分「スマホより劣った技術で宇宙へ」をタイトルにしたところに、執筆者の感覚が垣間見えて、逆撫でされるような感アリだった。
50年前が今の技術より劣ってるのは誰もが知るところだし、スマートフォンを持ち出すまでもない。そも、新聞社が何でスマホって縮めて書いてしまうのか?
縮めることで経費節約出来るのか?
ゴズリングは日本的短縮コトバで云ってないはずで、この表記って大衆迎合的な悪しきとみえて、不快。最近、こういうのが多すぎ。
朝日新聞2018.05.18
朝日新聞2018.08.21
東京新聞2019.02.11
朝日新聞2019.02.13
朝日新聞2018.09.22
オリのユニ着たバスケ選手って、何っ、この三段縮め?
アンケってなんじゃ? 小児言語じゃあるまいし、「ート」の2文字省略に何の必然があるのか?
一方でペーパーの新聞そのものは、さほど縮ませてなくって、なんだか妙な使い分け。
新聞社は言葉や単語の牙城たれ、な~んて爺さんみたいなことは云わないけども、ええ加減になさい、とは思ってブ~ふ~ゥ~。
朝日記事の技術云々をいえば……、アポロ計画というのは巨大システムを精密に動かす初事例となったプロジェクトと言い換えてもいい。
システムという単語が広く使われはじめるのも、アポロ計画からだ。
月飛行に関しては、宇宙飛行士の個人能力や一部少数のヒューマン・パワーだけではまったく成り立たないものだったし、シミュレーションという模擬練習が絶対的に必需でもあったし、それはヒューマン・パワーと精度高きな機器とが密接連動して初めて機能する、まさにシステムの名に値いするものでもあった。もちろんその中枢にコンピュータがいる。
朝日新聞記事はそれを「スマホより劣った技術で宇宙へ……」と云い、ついで「あの飛行士の恐怖を思う」と結ぶ。
しかし、これは絶対につながらない。
メモリー容量とかの小ささはまったく関係ない。当時はそれで最高にして最強パワフルなものだったし、飛行士たちはそれを信頼し、むしろ誇った上で搭乗しているワケで、そこに恐怖をおぼえような人物は皆無。そうでなくちゃ、アポロ計画は進まない。宇宙ロケットは飛ばせないじゃないか。
こういう自明を省いてしまったお気軽軽量なあさ~い記事が、大嫌い、です。
新聞社が本来書くべきは、アポロ時代のコンピュータがはたした巨大な役割の方じゃないかしら? その上でライアン・ゴズリングのインタビューとすべきだったと思うが、ね。
アポロ司令船のコンピュータとソフトウェアに関しての記述はコチラへ、どうぞ。
ソフトウェアという単語もアポロ計画で誕生した単語だよ。アポロのソフトウェアたる「コア・ロープ・メモリー」という重要なプログラムは、全米から選ばれた針仕事の達人たるオバチャン達が縫ったというような、「初めの一歩」を書いてます。実はそこだけで面白い映画が撮れそうなんですけどね。
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数日前、夜明け前の4時頃から雪が降り出して、降雪が少ない岡山市ゆえ、
「おや、珍しや」
ヨッちゃん喜び庭駆け回ったりはしないけども、こっそり嬉しい感触をもたげはしたのだった。
昔聴いて耳が馴染んだダークダックスの、
「ゆぅ~きのふぅるま~ちを~~♪」
と口ずさみ、
「お~もいでだぁけがとおりすぎてゆっく~~」
今もちゃ~んと歌える自分に感心したりしつつ、ブルルルッ、寒さというか空気の冷たさに身震いするのだった。
で、同時にまたぞろ、室町期末期頃に生きてた人達って、どれっくらい我慢強かったのか……、その逞しさにはとても追従できない脆弱なボクちゃんを見出したりもするんだった。
早朝4時過ぎ。窓ごしからパシャリ
過日ここで紹介した「おあむ物語」のおあむの例を当時の衣料の通例とするなら、厳寒のみぎりとても、粗末な手縫いの麻の帷子(かたびら)一枚だ。
帷子というのは、ひとえあわせな麻の小袖のことで、当然に裏地なんかない。涼し気な麻は今は夏用ということになってるけど、おあむが生きた時代に夏冬の区別はなかったようで、彼女はその一枚っきりで、13歳から17歳まで過ごしたというから……、今となっては信じがたい薄着。
冬場に羽織る綿入れなんてシャレたものもない。綿製品は室町期を過ぎてからのもの。
いよいよ寒い夜はボロっきれめいたのを帷子の上に重ね着したであろうとも思うけど、今の感覚じゃ~、とても耐え難い衣装にはマチガイない。
だからそこを耐え忍んでるんだから、えらいというか、何というか、皮膚の強さもまた今とは違ってたんだろうさ。耐寒強度が今とは違ってたとしか思えない。
朝8時頃
朝9時頃の甚九郎稲荷。撮影はEっちゃん
足跡は本人のものに違いない。麻一枚の薄着で歩いたハズはない
おあむの語った人生を眺めると、寒さだけじゃなく、もっとドエライ経験もつんでらっしゃる。
下級とはいえ300石取りの武士の家に産まれ育ち、その主人たるが石田三成だったんだから、その末路は今のワタシらは誰もが知るところ。
慶長5年(1600)、西軍の根拠地であった美濃の大垣城からリーダーの三成たち本隊は関ヶ原に移動。そこで東軍と対峙し、でもって敗れる。
西軍敗退で関ヶ原から東軍攻め寄せ、大垣城は包囲されてガンガン攻められる。
戦後に再現された大垣城
おあむは家族ともども城内にいる。
その籠城で、おあむは母や他の女性たちと、運び込まれる敵方の首(!)を洗い、おしろい施し、お歯黒をさす。
で、それら生首は一箇所に集められ、敵方にも見える場所に晒す。
死化粧を施す理由の一つには、首の主が敵方の重要人物であると見せかけて敵の戦意を萎えさせる役に使う一方で、戦場における敵方への敬意も含まれる……、ようだ。
とはいえ、そのようなことをば、城で女性たちが総出でやってる図は、今の感覚じゃ修羅の地獄図としか映らない……。
けども、当時の感覚は違うんだなぁ、おあむは告げる。
「おはぐろ首は 良き人とて ……中略…… 首もこわいものでは あらない」
「その首どもの血くさき中に 寝たことでおじゃった」
この時、おあむ(御庵とも書く。庵は愛称だろう)は18歳前後か? 血に動ぜず、首の重みにアタフタしないのは、生首は「良き人」という感覚が先行支配しているからだろか?
おあむには14歳の弟がいて、この子は、城内で鉄砲玉にあたる。
「そのまま ひりひりとして 死(しん)でおじゃった。扨々(さてさて)むごい事を見て おじゃった」
この、「ひりひりとして」に酷烈な哀れを感じるのだけど、おあん達はその翌々日の夜だかに城から脱出する。
取り囲んでいる家康側から矢文が射込まれていて、「城をのがれたくは 御たすけ有べし 何方へなりとも おち候へ」とのことで、おあむの父・山田去暦は天守近くに家族呼び寄せ、吊り縄で石垣を降り、用意していたタライに家族を順次に乗せては堀を渡り(インディアナ・ジョーンズの冒険みたいですが)、夜の闇にまぎれて城から離れてった。
300石取りだから家来もいるのだけど、家来には告げず、親子4名(兄がいた)で逃れる。
けど途中で、おあむの母親が産気づく。おあむによれば城から5、6町離れた田んぼの中であったようで、女の子がその場で産まれる。
「おとな 其まま 田の水にて うぶ湯つかひ 引あげて つまにつつみ(着物の裾でつつむ) はは人をば 親父 かたかけて あを野ケ原のかたへ落ちておじゃった」
その後の記述に、
と続くから、おそらくその女の子は逃走中に亡くなったのかもしれない。
江戸期(享保15年)に描かれた装画を見るに、夫は妻を背負い、長男に子を持たせての遁走だ。この絵からは凄惨さは伝わらないし、衣装描写も資料的価値は薄いけど、家来を見捨てはしたものの家族という単位だけは何とか維持して逃げざるを得なくなった境遇の壮絶は、ちょいと判らないではない。妻を背負うた夫は草履も履いてない。
そうやって山田一家は土州(土佐)にまで下り、おあむは同地にて近江出身の雨森儀右衛門という人物と結婚。儀右衛門没後には甥の山田喜助宅に身を置いた――― と、波乱万丈の生涯だけど、尼僧になった晩年(1661~1673頃。4代目将軍徳川家綱の時代)に語った「おあむ物語」の後部では、当時とを比べ、
「ひる飯など喰ふという事は 夢にもないこと 夜にいり 夜食といふ事もなかった 今どきの若衆は 衣類のものずき 心をつくし 金ついやし 食物にいろいろの このみ事めされる 沙汰の限りなきこととて」
と、衣装に心を奪われたり金(こがね)で何でも食べられ好みもうるさいのを、おあむはどうかしてるよ~、と嘆いてるのだった。
彼女の青春時代を顧みると、
「朝夕雑炊をたべて おじゃった おれが兄様は 折々山へ 鉄砲うちに まゐられた」
「其のときに 朝菜飯をかしきて 昼飯にも 持たれた その時に われ等も菜めしをもらふて たべておじゃったゆゐ 兄様をさいさいすすめて 鉄砲うちにいくとあれば うれしうて ならなんだ」
とある。
日常2食。それもお粥。時に菜っ葉を刻み入れたご飯のみという粗食。キジだか鳥だか猪だかの肉が渇望されているのが、ここでよく判る。
300石取りの武士の家でこうなんだから、その家来の家というのは、さらに米の摂取量は少なかっただろうから、お粥とても、いっそ白湯に近いようなもんじゃなかったかしら。
しかし、大垣城から脱出しておよそ50年、徳川4代目家綱の時代になった頃には、金さえあれば色々な食物を口に出来る社会になってるのも感心……。自明なことではあるけれど、戦争しなくてよくなると衣料や食品物量も良くなってくんだね。
おあむにはその変化が眩かったに違いない。昔は良かったなんて〜コトはチッとも思わないだろうけど、口惜しいような気分もまたなくはなかったのじゃあるまいか。
巻頭で紹介のアポロ記事にひっかかれるような思いを受けたのは、たぶんにそんな時代変化の渦中での体感温度差を、軋みめいた悲哀として……、おぼえてのコトかも知れない。