土佐光信の絵

 昨年末の講演「岡山木材史」の中で、余談バナシに中世の刃物事情と調理について、桃太郎伝承とからめて触れた。

 主旋律としては、

「おじいさんが芝刈りに出かけた山は、誰の山なのか?」

 という我が問いと共演の大塚氏の答えだったけど、中世初期では刃物は高額な希少品だったし、いわゆる包丁が登場しているワケでもなく、家族の中、小刀が一本あるきりで、それを一家の主が保持し、大事なモノだから常に携帯をし、小笹を切るのも、魚を解体するのも、すべてその1本で主人が行っていたろう……、というハナシをちょっと繰り出した。

 で、その後も折を見ては調べてたのだけど、土佐光信の絵にその痕跡が見られて、いささかの感慨をわかせているのだった。

 

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 土佐光信は室町時代の中頃から戦国時代までを生きた絵師で、8代目将軍足利義政関連の文献によると、絵所預(えどころあずかり・宮廷の作画機関のトップ)50年も務め、最終的には従四位下という位についてるから、官僚的立ち位置で絵筆を取り続けた人と書いてもいい。

 日本画の流派の大きな派閥の1つ土佐派の本流を作った人といわれ、将軍家やら公家と密接な関係を持っていた。

 宮廷画家のトップとして50年も君臨しているのだから、ただの絵師じゃない。

 年譜経歴を眺めるに、かなりの策略家であり、たびたび自己主張を押し通すために他者を蹴散らすようなコトもやっていたようじゃあるけれど、国が南北朝に別れてケンカしている乱世な時代でもあって……、ファイティング・ポーズもまた必需でもあったろうか。

 官職としての絵師の立ち位置確保というか、その権力保持に相当なエネルギーを使っていたようで、そのあたり……、後世のボクには感触として好きになれない次第じゃあるけれど、剣の輝きでなく筆の閃きに自身をのせ続けた継続の強さの中、ともあれ画業は画業、傑作が幾つもある。

 

 眺めると、何枚かの絵で男の調理が描かれている。

 庶民の家庭内じゃなく、宮廷なり武家での調理場面ではあるけれど、見るに、なるほど、やはり包丁はない。小ぶりな刀で魚をさばいてる。

 菜箸を用いて素手では魚に触れず、右手の刀でさばいてく。

 当然にこれは専門職。光信が描く調理師はたいがいどこか炯々としてる。魚さばきの自信が垣間見えるんだ。

 

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            「千僧供の霊験」の一部 頴川美術館(兵庫県)蔵

 

 当時、まだ醤油はない。切り身は生姜酢や煎り酒(いりざけ・酒に梅干や鰹節をいれて煮詰めたもの)でもって味付ける。それで煮たか、あるいは刺身として食べるさいにからめたか……、この時期の食の光景はまだ鮮明になってはいないけど、ともあれ、やや短い刀1本で魚をさばく職人がいて、お給金を頂戴していたというコトはまちがいない。

 刀でさばく役と煮炊きの役は別人が担うという点も、おもしろい。

 鍋を煮る係の男は、たいがい老人っぽいのも特徴だ。下の絵の部分、一見、汚い爺さんだけど、煮物に関しては無類の味付け舌を持った人物であるはずだ。

 この爺さんの表情にもまた自信がうかがえる。

 

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              「如願尼の利生」の部分 東京国立博物館

 女性が調理に関わっていないのも特徴だ。

 庶民を描いた絵には、鍋の煮炊きで女性が作業しているのはあるけれども、刃物を使う調理作業は男性だ。

 刃物イコール男、なのでありますな、この当時。

 ま~、そのことを土佐光信の絵が証してくれてるワケだ。

 

 ですのでね……、この時代の物語らしきかの桃太郎はですね、ご承知の通り、川で拾った桃をおばあさんがカットすると坊やが中から出てくるんだけど……、より正しく「時代考証」をすると、おばあさんは刃物は使わず(使えず)、家長たるおじいさんが桃をカットしていなきゃ~~おかしいのだ。

 

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 1937年に刊行された大日本雄辯會講談社(現在の講談社『桃太郎』は、我が見解で見れば刃物の向きが極めて正しく、これを描いた斎藤五百枝(さいとう いおえ 1881-1966は鋭いな~と思わざるをえない。(本文を執筆した神話学者の村松武雄の指示だった可能性もあるけど、ただやはり、包丁はまだ存在しない。ナタのようなぶっ叩き式のモノはあったけど……)

 

 食物の切り分けというのは、食料の大小の配分を決めることでもあって、室町時代の当時、刃物を持ってる一家の主がそれを担うのがあたりまえで、転じて、「妻は夫に従うべし」というケッタイな生活慣習が今に残滓として伝わっているワケだ。

 いわば、起源の底流には1本の刃物が置かれてるという次第なんだ、な。

 

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 上は土佐光信の絵ではなく、「松崎天神絵巻」 (別府天満宮蔵)から。フイゴ職人宅の調理シーン。やはり家長が小刀で切り分けている。左のショボクレたヤングはフイゴ職人の弟子だそうな。木刀(?)のような刃物もどきで串を削っているよう見える。研いだ小刀はまだ持てないということか?

 中世の女性の生活を研究する保立道久は『中世の愛と従属』(平凡社)でこの絵を取り上げ、黒装束の女性が実はこの家のアルジ的存在と論証(肘をついてる長持ちが重要なんだ)されているけど、ここではその点に触れず、ただ刃物というのが男に属していたモノであった時代がかつてあった、というコトにのみ、以上触れた。

 

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 刃物とは関係ないけど、土佐光信の絵でボクが惹かれたのは下の1枚だ。

 

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              「屋根葺地蔵」の部分 東京国立博物館蔵  

 

 この4人の小僧と手伝い少年1人を眺めるに、土佐光信は瞬間を捉えているのじゃなく、家屋製作の何時間かを1枚の絵に入れ込んでいるよう思えて、これはメチャに、お・も・し・ろ・い。

 屋根の上にしゃがんで竹の骨組みを縛ってる坊主と、下から重しの石を投げ上げている少年とは同じ時間に、いない。

 同じ時間なら、投げ上げた石で上の人物がケガをする。一見は連動した動きに見せるけど、そうでない。

 とすれば、この絵には4人の小坊主がいるけど、実は4人ではなく、2人だった可能性だって、ある。

 2人の作業の様子を1枚の絵で見せちゃうと、4人が同時にいるみたいな時間重ねのオーバーラップを生じさせてるというワケだ。

 と、以上は……、やや小さな図版でこの絵を見たさいの感想だ。

 けどしかし、後に、やや大きな全集本を入手してあらためて眺めるに、少年は投げ上げているのではないと判明した。

 屋根の上の坊主が縄で石を上げているんだ、ね。

 2人の作業は連動していたワケ、ね。

 

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 よって結論。

 美術系の本は文庫サイズで眺めちゃ~いけねぇ。

 情報量が少な過ぎ。断固大きなサイズの本でなくっちゃ~、上記のような”誤読”が生じるんだ。

 

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               でっかい方がいい。

 

 次いでに云うと、右側で子に乳をふくませている女性も、おもしろい。

 一見、老婆だ。

 顔のシワといいオッパイの垂れっぷりといい、若くない。

 年取ってからの子か? それともホントの母親は左の薪を運んでる女性で、代理で、出ないけどオッパイ吸わせて子を馴染ませてるのか? などとついつい注視してしまうくらいインパクトが強い老婆だ。

 いや、実は老女でなく、今の眼にはおばあさんだけど、実は18歳くらいなのかもしれない。すでに16歳で1度出産したけど、それは生後すぐに死んじゃって、苦労を重ね……、などと空想するのも、イイもんだ。

 子をあやしつつ休息しているようでもあるからこの部分にタイトルをつけると「ローバの休日」だ。

 

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 しかしまた、ひょっとすると、中央の石の下の少年の実の母であり、少年は少年にみえてドッコい、実は左の薪を背負った女性と関係しちゃって、出来た子を実母があやしている……、かもしれないと思ってみるのも、イイもんだ。ま~、可能性は薄いけど。

 ともあれなにより、この絵には、奇妙なほどに軽快感があって、ある種の小気味よいリズム音がはねているように感じられてしかたない。

 小僧たちの姿には、家屋を建てる喜びみたいなものが充満しているんだ。

(とある地蔵のために雨除けの屋根を造って、そこを寺にしようとしているという図、です)

 

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 縄綯(な)いをやってる小僧の足と手の動きもいいが、視線を屋根の方に向けているのがダントツにいい。自分の作ってる縄(麻を撚り合わせているに違いない)がまもなく結わえとして使われるという希望的展望がこの視線の先にはあるワケで、土佐光信はただ観察的に描いているだけじゃないのがこれで判る。

 要は気分が描かれてるんだ。

 

 ま~、だいたい男子はモノを造るのが好きなのだし、その過程も愉しむというのはプラモデルに集約される組立の愉悦理論そのものですけど、この絵の小僧たちもまた、きっと、楽しかったに違いないとボクは想像し、一鑑賞者として楽しんだワケだ。

 だから当然に、描いてる途中の土佐光信もきっと、乱世の世渡りのいやらしい知略やら権威にアグラをかいていっそうにそれを固めるといった処世の術などは忘れ、楽しんだに違いないと想ったりもし。

 

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 余談ですが、土佐光信には娘があった。

 千代といい、自身も絵筆をとった。

 彼女はやがて狩野元信の妻になる。

 元信は光信の大和絵テーストではなく唐絵というカタチで、いっそ土佐家の画風とは反撥するスタイルの、いわばライバル関係として勃興していたけど、この結婚でもって、両者両派閥に交流が生じ、やがてその画風の混合成果として、千代の孫である狩野永徳の手で「洛中洛外図」といった傑作が生まれ、その描法は大ブームとなって江戸時代前期頃まで、似通う構図での町と群衆の動きをとらえた絵が続々描かれることになる。

 また、その群衆の中から部分を抽出しクローズアップというカタチでもって後には「浮世絵」が登場もする。

 今の美術界の評価する所では、千代はあくまでも狩野元信に嫁いだ女性という位置に置いてるようだが、絵画改革のキーワードとなる2つの大きな川というか、土佐派と狩野派、2つのでっかいブランドを結んだ重要な女性と思えるのだけど、あるいはその結婚には土佐光信の政治的戦略的魂胆があったかとも思えるし……

 

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          千代が描いたと伝わる源氏物語図扇 東京国立博物館